アダム・ダン
Adam Dunnシカゴ・ホワイトソックス時代
(2011年8月8日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地テキサス州ヒューストン
生年月日 (1979-11-09) 1979年11月9日(43歳)
身長
体重6' 6" =約198.1 cm
285 lb =約129.3 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション外野手、一塁手、指名打者
プロ入り1998年 ドラフト2巡目(全体50位)でシンシナティ・レッズから指名
初出場2001年7月20日
最終出場2014年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
シンシナティ・レッズ (2001 - 2008)
アリゾナ・ダイヤモンドバックス (2008)
ワシントン・ナショナルズ (2009 - 2010)
シカゴ・ホワイトソックス (2011 - 2014)
オークランド・アスレチックス (2014)
国際大会
代表チーム アメリカ合衆国
WBC2009年
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アダム・トロイ・ダン(Adam Troy Dunn, 1979年11月9日 - )は、アメリカ合衆国・テキサス州ヒューストン出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手、指名打者)。右投左打。
ニックネームはBigDonkeyとBiggin。Bigginはシカゴ・ホワイトソックスのブロードキャスターであるケン・ハレルソンが名付けた[1]。
通算14シーズンで462本塁打を放った一方、歴代3位となる2379三振を記録。[2][3]
2004年から3年連続でナショナルリーグ最多三振を喫し、そのうち2004年の195三振は当時のMLBシーズン最多記録であった。2012年には歴代2位の222三振を記録し[4]、2000三振に史上最速の12年で到達している[5]。 高校時代は野球とアメリカンフットボールをプレイしていた。野球とフットボールの両方で大学やプロから注目される存在となり、特にフットボールではクォーターバックとして活躍し、3年間で4792ヤードのパスを通し、44TDパスを記録した。高校生全体の中でも、マイケル・ヴィック、マット・ホリデイらと共に名の通ったQBであった[6]。 野球では1998年のドラフト2巡目(全体50位)でレッズから指名され、またフットボールではカレッジフットボールの強豪テキサス大学オースティン校から奨学生のオファーを受けた。そこでこの年は、まず野球のマイナーリーグで7月末までプレイし、その後8月からはカレッジフットボールへ合流。しかし、翌1999年春、テキサス大学はダンより1学年下で前年にUSAトゥデイ最優秀オフェンス選手に選ばれていた新人QBクリス・シムズを先発QBとして起用し、ダンをタイトエンドにコンバートしようとしたため、ダンはフットボールを諦め、野球に専念することを発表した[7]。 2001年に、マイナーAA級・AAA級でシーズン途中まで計94試合に出場し打率.334、32本塁打を記録。7月8日にセーフコ・フィールドで行われたマイナーリーグのオールスター "フューチャーズゲーム では、2階席にあるレストランを直撃する大本塁打を放った。前年にこの球場でそこまで打球を飛ばした選手はいない[8]。この活躍を受け7月半ばにメジャーに昇格する。 7月20日のマーリンズ戦でメジャーデビュー。8月には12本塁打を放ち、ナショナルリーグの月間本塁打新人記録を樹立した[9]。66試合の出場で74個の三振を記録してしまうが、この年は打率.262、19本塁打を記録し、シーズン終了後の新人王投票では4位に入った。マーク・マグワイアは「ウチのアルバート(プホルス)とアダム(ダン)は特別な若者なのだ。彼らのパワーは、底知れないものがある」と語っている[8]。 2002年は 158試合出場で、打率.249、26本塁打、71打点、自己最多の19盗塁を記録。しかし、170三振を喫し2002年6月16日から6月24日にはMLB歴代2位タイ記録の7試合連続マルチ三振を記録してしまった。 2003年は故障で8月15日にシーズンを終えてしまい、116試合出場で、打率.215、27本塁打、57打点、8盗塁、126三振を記録した。2004年は復活し、自己最多の161試合に出場し、自己最多の46本塁打、自身初の100打点超えとなる102打点。6盗塁、打率.266を記録した。しかし、シーズン終盤にエイドリアン・ベルトレ(ロサンゼルス・ドジャース=当時)が本塁打を量産したため、タイトル獲得には至らなかった。その一方でこの年記録した195三振は、1970年のボビー・ボンズを抜く当時のMLB新記録で、「ボンズの記録を一つ超えた」と胸を張っていた。そのほか、100得点・100打点・100四球の同時達成(球団史上2人目)や、犠飛なしで100打点(MLB史上3人目)なども記録している[10]。2004年8月10日にはグレート・アメリカン・ボール・パークの最長不倒記録となる532フィート(約163.1m)の本塁打を放っており、これはフアン・フランシスコが2011年9月12日に記録した第2位の502フィート(約153.0m)に大きな差をつけている[11]。しかし、最多三振記録の他にシーズン三振試合数122試合と1試合で2個以上三振を記録した試合数、つまり、マルチ三振試合数62試合という2つの当時のMLBワースト記録を作ってしまい、三振絡みの新記録が3つも生まれたシーズンになった。 2005年も160試合に出場し、打率.247、40本塁打、101打点を記録した。三振は168で前年から27個減らしたが、2年連続リーグ最多であった。 2006年シーズンからは、外野守備の悪さから一塁手にコンバートしてプレイする予定だったが、ウィリー・モー・ペーニャが開幕直前にトレードで移籍し、左翼手としてプレイすることになった[12]。この年、出塁率が.370を下回り、100得点・100打点も達成できないなど成績を落とし、160試合で打率.234、40本塁打、92打点、7盗塁。三振も194個と当時の歴代ワースト2位の数を記録して、3年連続の最多三振を記録してしまった。また、シーズン三振試合数123試合を記録し、自らのMLB記録を塗り替えてしまった。レッズ時代のダン
経歴
プロ入り前
プロ入りとレッズ時代