アダム・コープランド
[Wikipedia|▼Menu]

エッジ

プロフィール
リングネームアダム・コープランド
エッジ
コンキスタドール・ウノ
アダム・インパクト
セクストン・ハードキャッスル
デーモン・ストライカー
本名アダム・ジョセフ・コープランド
ニックネームR指定のスーパースター
ピラニア
好機を逃さぬ男
キング・エッジ・オーサム
身長196cm
体重115kg(最盛期)
誕生日 (1973-10-30) 1973年10月30日(50歳)
出身地 カナダ
オンタリオ州
オレンジビル
所属AEW
スポーツ歴ラスリング
総合格闘技
デビュー1992年7月1日
テンプレートを表示

アダム・コープランド(Adam Joseph Copeland、1973年10月30日 - )は、カナダプロレスラー映画俳優オンタリオ州オレンジビル出身(プロレスでの入場の際は、オンタリオ州トロントとコールされる)。アメリカ合衆国プロレス団体WWEにエッジ(Edge)のリングネームで所属していた。

R指定のスーパースター(The Rated-R Superstar)、好機を逃さぬ男(The Ultimate Opportunist)の異名を持つ。
来歴
キャリア初期

レッスルマニアVI大会の客席のリングサイドから11番目にランス・ストームクリスチャンと共に観戦に来ていた[1]。そして、メイン戦のハルク・ホーガンアルティメット・ウォリアーの試合を観戦した後、プロレスラーとなることを決意する。12年後のレッスルマニアX8においてエッジは同じくスカイドームのリングに立ち、夢を実現させた[2]オンタリオ州トロントにてスウィート・ダディ・シキとロン・ハッチンソンのトレーニングを受け、1993年にプロレスデビューを果たした。小学生の時からの親友であるクリスチャン1993年にプロレスデビューし、タッグチームを結成する。その後はアメリカやカナダのインディー団体を転戦し、後にWWFでも同僚となるライノらも加えた軍団を結成していた時期もあった。また日本の新東京プロレスにカナディアン・ロッキーズとしてクリスチャンと共に参戦したこともあった。

1996年、カナダ出身のスター選手であるブレット・ハートのマネージャーの目に留まったことからWWFにジョバーとして参戦するようになり、翌1997年にはブレットの地元カルガリーでのトレーニングに参加。共に参加していたクリスチャン共々高い評価を得、同年正式にWWFと契約を果たした。
WWF / WWE1999年
初期?クリスチャンとのタッグ

1998年6月にシングルプレーヤーとしてWWFデビューを果たす。その後ギャングレルにクリスチャンを紹介される形で3人で吸血鬼ユニットのザ・ブルードを結成した。ザ・ブルードは翌年ジ・アンダーテイカーのチーム、ミニストリー・オブ・ダークネスに取り込まれヒールとなるが、派手な入場パフォーマンスで一定の人気を得ていた。その後失態を犯したクリスチャンを庇う形でザ・ブルードはミニストリーから追放されるものの、同時期にエッジはインターコンチネンタル王座を獲得し初の王座戴冠を果たした。

1999年夏以降はクリスチャンと本格的にタッグ戦線に入り、ダッドリー・ボーイズアコライツ(APA)、ニュー・エイジ・アウトローズD-ジェネレーションX)、トゥー・クール、T&Aなどライバルチームの多い中、ハードコアマッチの得意なタッグチームとして徐々に頭角を現した。1999年のハーディー・ボーイズとの抗争ではギャングレルが寝返り、ハーディー・ボーイズ(ニュー・ブルード)とのライバル関係はその後も続いた。

レッスルマニア2000では、ハーディー・ボーイズとダッドリー・ボーイズとの三つ巴ラダー・マッチを制し初のタッグ王座に輝くと、翌年のレッスルマニアX-Sevenでも同一カードで行われた史上初のTLCマッチを制しタッグ王座を獲得するなど、クリスチャンとのタッグでは7度の王座に輝いた。"Reeking of awesomeness"(awesomenessは日本語字幕では「激シブ」などと訳されていた)を決め台詞に、「写真撮影のための5秒ポーズ」や、相手や開催地を小バカにする仮装・マイクパフォーマンスなどで、コミカルでヘタレ系ヒールのタッグチームとして人気を得たほか、2000年にはカート・アングルとも同盟になり3人のチーム・ECKとしても度々活動していた。またハーディー・ボーイズへのタッグ王座挑戦を禁じられたことから全身金色タイツの覆面のタッグチーム、ロス・コンキスタドアーズとしても王座を獲得している(エッジはコンキスタドール・ウノ、クリスチャンはドスを名乗っていた)。
シングルプレーヤー転向

2001年キング・オブ・ザ・リングではチーム・ECKとライノの同盟関係4人でベスト4を席巻する。エッジはライノを破り決勝に進むとシェイン・マクマホンの介入もあってカート・アングルを破り優勝を果たした。しかしそれを妬んだクリスチャンの裏切りによって、3年近く続いたタッグを解消しシングルプレーヤーとして活躍し始める。このクリスチャンとの抗争でベビーフェイスになる。その後もアングルからUS王座を奪取したり、インターコンチネンタル王座も獲得し王座を統一するなど活躍した。

2002年ブッカー・Tとの架空の日本のシャンプー(ヤカモシ・シャンプー)のCMでのいざこざからレッスルマニアX8での試合となり、勝利する。その後のブランド分割ドラフトではSmackdown!に所属。カート・アングルとの抗争では髪切りマッチに勝利し、自らの手でアングルを丸坊主にした。アングルの入場時の「You Suck(日本語字幕では「ヘナチョコ」)」チャントは、前年から時折起こるようになっていたが、この時期にエッジが煽ったことで公式に定着した。さらにハルク・ホーガンレイ・ミステリオとのタッグでタッグ王座を獲得したり、ブロック・レスナーWWE王座にも挑戦するなど大きな人気を得ていた。

2003年2月のノー・ウェイ・アウトでのタッグ戦を前に首の椎間板を複数損傷する重症を負い、出場を断念しWWEから長期離脱して脊椎の手術・治療を行った。2004年のブランド間ドラフトでRAWに移籍することが決定すると、サプライズ復帰し大歓声を受けた。復帰後はランディ・オートンからインターコンチネンタル王座を奪取するなど活躍するも、ショーン・マイケルズクリス・ベノワなどとの抗争などを通じて徐々に狂暴な面を見せ始め、サイコ・ヒール化していった。
2005年2005年

2月4日RAWテレビショーさいたまスーパーアリーナ大会「ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOUR」で、トリプルH世界ヘビー級王座に挑戦するも敗北。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:147 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef