アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク
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アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク
Adam Albert von Neipperg
ナイペルク伯
1820年代画

出生1775年4月8日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーン
死去1829年2月22日
パルマ公国パルマ
配偶者テレジア・フォン・ポーラ
 マリア・ルイーザ
子女下記参照
父親レオポルド・フォン・ナイペルク
母親マリー・ヴィルヘルミーネ・フォン・ハッツフェルト
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アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク
軍歴1791-1829
最終階級陸軍中将
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アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク伯爵(Graf Adam Albert von Neipperg、1775年4月8日 - 1829年2月22日)は、オーストリア帝国貴族軍人政治家フランス皇帝ナポレオン1世皇后だったパルマの女公マリア・ルイーザ(独:マリー・ルイーゼ)と再婚し、女公を公私両面で支えた。
生涯
生い立ち、青年期

1775年、レオポルド・フォン・ナイペルク伯爵(Graf Leopold von Neipperg、1728?1792)と彼の3番目の妻マリー・ヴィルヘルミーネ・フォン・ハッツフェルト伯爵令嬢(Grafin Marie Wilhelmine von Hatzfeldt、1750?1784)の息子として生まれた。祖父ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルクは陸軍元帥であり、1726年に男爵から帝国伯に陞爵された。財務官及び外務事務官として勤めた父レオポルドはナポリ王国駐在大使を務めた。アダム・アルベルトはシュトゥットガルトのホーエン・カールスシューレ(英語版)(高等学校)で学んだ[1]。1791年、オーストリア陸軍に入隊して軍人となった。

フランス革命戦争ナポレオン戦争を戦い、多数の傷を負った歴戦の勇者としてマリア・テレジア軍事勲章を授与されている[2]。1794年9月、オランダのドゥール(現在のベルギー北部オースト=フランデレン州)近くで諜報任務を終えて復帰する中、フランス軍と遭遇して銃剣傷を負った。この負傷によりナイペルクは右目を失明し、フランス軍に捕らえられたが、捕虜交換で釈放できた。1806年2月4日ヴェネツィア貴族出身のテレジア・フォン・ポーラ伯爵令嬢と結婚し、4人の息子が生まれた。1810年に少将に昇進し、駐ストックホルム軍事外交官となった[3]。1812年、ドレスデンでの各国首脳会議の後、プラハに残留したマリー・ルイーゼに皇后付武官として仕えたことがあった[4]。1813年10月、中将に昇進した。

1813年12月には対仏同盟への加担を模索していたナポリ国王ジョアシャン・ミュラに派遣され、オーストリアとナポリ王国の同盟交渉を行った。翌年初にロンバルディアへ帰還し、師団長としてパヴィーアに留まった。

軍事面だけでなく文化・芸術にも素養があり、また活動的で真面目な人物でもあった[5]
マリー・ルイーゼとの出会い.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}エルバ島エクス=レ=バンパヴィーアワーテルローシュトゥットガルト 関連地(注:国境線は現代のもの)平和の門(イタリア語版)左アーチ側面に施された「1815年のナイペルク将軍のナポリ入城」と題された彫刻

神聖ローマ皇帝フランツ2世オーストリア皇帝フランツ1世)の長女マリー・ルイーゼ大公女(仏:マリー・ルイーズ、伊:マリア・ルイーザ)は、1809年のヴァグラムの戦いにおけるオーストリア側の敗北の後、フランス皇帝ナポレオン1世が彼自身の嫡出子を欲して求婚を受け、これを受諾せざるを得なかった[6]。マリー・ルイーゼは1810年4月1日にナポレオン1世と結婚し、翌1811年3月20日ナポレオン2世(ナポレオン・フランソワ/ナポレオン・フランツ)を出産した。しかしナポレオン1世の敗北が確定的になると、1814年5月21日ウィーンに帰国した[7]

マリー・ルイーゼ自身は、ナポレオン1世が流刑になったエルバ島へ行く意思があった[8]が、未だフランス敗戦後の交渉が終結していない中、オーストリア側としてはこれを阻止する必要があった[9]。皇帝フランツから「どんな手段を講じても」マリー・ルイーゼのエルバ島行きを阻止するための人材を求められ、陸軍参謀総長シュヴァルツェンベルク元帥(英語版)は、パヴィーアに赴任中だったナイペルク伯爵を推薦した[10]。皇帝の「いかなる手段を講じても」という指示についての解釈について結論は出ず、ナイペルクに委ねられた[11]

1814年7月14日、ナイペルク伯はマリー・ルイーゼの静養先エクス=レ=バンに先回りし、7月16日に彼女を出迎えた[12]。ナイペルクはマリー・ルイーゼの監視と警護のため常に傍らにおり、やがてマリー・ルイーゼにとって必要不可欠な側近となった[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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