この項目では、皇帝について説明しています。モニターについては「アタワルパ (モニター)」をご覧ください。
アタワルパ
Atahualpa
インカ皇帝
肖像画
在位1532年-1533年
戴冠式1532年7月以前
ワマチューコ
アタワルパ(Atahualpa、ケチュア語: Atawallpa:幸福な鶏、1502年頃-1533年7月26日、在位:1532年-1533年)は、インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)である(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル)。父は11代インカ皇帝ワイナ・カパック。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位したが、スペイン人のコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロらによってインカ帝国は攻め滅ぼされ、その後処刑された。 ワイナ・カパックは自らの母の出身地であるキトを愛し帝国の第2の首都としたため、晩年にはインカ貴族が首都クスコ派とキト派に分かれ対立していた。父帝の死後、本来皇太子であったニナン・クヨチが間もなく父と同じ病気で没すると、帝国はワスカルとアタワルパ、2人の兄弟の間で分割され、ワスカルは首都クスコを含む帝国の大半(コヤ・スウユ、アンティ・スウユ、クンティ・スウユ)を、アタワルパは第2の首都キトを含む北部(チンチャ・スウユ)を得た。2、3年の間、彼らは平穏に分割支配をしたが、ワスカルはワイナ・カパックとその妹にして正妻との間の子であったため、自らが正統なサパ・インカであると考え、アタワルパに自分への忠誠を誓うよう要求し、これをアタワルパが拒否したことから内戦が始まった。 帝国の大半を押さえたワスカルは大軍と共に北に侵攻し、間もなくアタワルパを捕らえた。アタワルパはキトに幽閉されたが少女の助けにより脱走し、チャルクチマ
内戦
ピサロとの交渉アタワルパ(ブルックリン美術館)
この頃までに、スペイン人のコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロは、1532年7月にペルー最初の植民都市ピウラを建設した。2か月の行軍の後に、ピサロは兵168人と共にカハマルカに到着し、スペインの駐留に関してアタワルパと会談するため、同じくスペイン人のコンキスタドールであるエルナンド・デ・ソト、ドミニコ会修道士ビセンテ・デ・バルベルデ(英語版)神父及び現地人通訳フェリピロ(英語版)をアタワルパの元へ送った。
バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦い(英語版)と呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。
スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、「なぜこれは喋らない」と尋ね、地面に放り投げた。この行動はインカには書き文字が無かった事によるものだが、結果的にスペイン人に対しインカと戦うための絶好の口実を与えてしまった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり7,000人以上の非武装のインカ兵が鉄剣と騎兵により殺された。この時使われた鉄砲は先込め式銃であったため発射は数斉射に限られ、スペイン人の戦果の大半は剣によるものだった。アタワルパは輿から引き摺り下ろされ、太陽の神殿に投獄された。
幽閉から処刑へアタワルパの最期
アタワルパは未だスペイン人が彼の帝国の支配を目論んでいることを信じられなかったので、彼らが探している金銀を与えれば自分を釈放し立ち去ると考え、ピサロにエル・クアルト・デル・レスカテという部屋1杯の金と、銀を2杯提供することに同意した。ピサロは申し出に愕然とさせられたが、皇帝を釈放する意向は全くなかった。