アタリ_(企業)
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この項目では、アメリカ合衆国で創業したゲーム企業について説明しています。日本のゲーム開発企業については「ナツメアタリ」をご覧ください。
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この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年11月)

アタリ Atari

種類ビデオゲーム
家電
所持会社アタリ・インベクティブ
使用開始国 アメリカ合衆国
使用開始1972年6月27日 (1972-06-27)
旧使用会社Atari, Inc. (1972?1984)
Atari Corporation (1984?1998)
Atari Games (1984?1999)
Hasbro Interactive (1998?2001)
ウェブサイト ⇒www.atari.com
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アタリ(ATARI、NASDAQ: ATAR)は、アメリカ合衆国ビデオゲーム会社である。
概要

1972年ノーラン・ブッシュネルが創業した[1]同社は、ビデオゲームを作ることを主眼に創立された会社としては世界初の企業である。同社はアーケードゲーム家庭用ゲームの開発を主軸としている一方、パソコンピンボール電子ゲームを作ったことがある。

アメリカのAtari, Inc.は1999年に仏インフォグラムグループに買収され、2009年に旧インフォグラムグループは全てアタリブランドに改名されてAtari SAグループとなった。旧インフォグラムであるAtari SAの本社はパリ、その子会社で旧アタリであるAtari, Inc.およびAtari Interactiveの本社はニューヨークにある。

日本支社にはアタリジャパンがあるが、旧アタリグループの子会社としての旧アタリジャパンと、旧インフォグラムジャパンが改名したアタリジャパンがあり、両者は異なる会社である。詳しくは「アタリジャパン」を参照。

アメリカのAtari, Inc.は2017年現在、レトロゲームを詰め合わせたゲーム機「Atari Flashback」や、ゲーミングスマートウォッチ「Gameband」などのゲーム機を販売している。
概説
社名の由来

囲碁日本棋院初段を持つブッシュネルが囲碁用語「アタリ」から社名を取った[2][3]。当初は「シジギ」(Syzygy)にしようとしたが、他の会社が商標登録済で使えなかったため[3](「シジギ」についてはコンピュータースペース参照)、ブッシュネルが好きな囲碁用語「センテ」「ハネ」「アタリ」の中から「アタリ」を選んだ。「アタリ」を選んだ理由には「どんどん敵を包囲し、自陣を広げてしまう」という狙いもあったと言われている。
アタリマーク

社紋はATARIのAを図案化したもので、日本富士山になぞらえてフジマークとも呼ばれるが富士山とは直接の関係は無い[4]。零細企業だった1973年春頃に作られたため、生まれたプロセスや初登場日ははっきりしていない。

マークの下には関連企業の名前、それがない場合はキャッチコピーの"Innovative Leisure"(イノベイティブ・レジャー:新鮮な遊び)が入る。1991年6月には創業25周年を記念し、社員で人マーク(人文字のようなもの)が作られた。スマートなデザインで親しまれたため、インフォグラム傘下となった今でも使われているが、細部は微妙に変えられている。
沿革
前史

ノーラン・ブッシュネルは、ビデオゲームアーケードゲーム化を目指し、『コンピュータースペース』を発売したが、失敗した[2][5]。だが、このゲームの発売元であるナッチング・アソシエーツの社長からの情報を元に、世界初の家庭用ゲーム機オデッセイ」の発売前展示を見たブッシュネルは感銘を受け、独立して新会社設立を決心した。

『コンピュータースペース』を発売するため、ブッシュネルと共にアンペックスからナッチングまで一緒に転職もしてくれた、ラリー・ブライアンとテッド・ダブニーを誘い、3人で250ドルずつ出す計画だったが、ブライアンは創業前に離脱してしまった。そこでダブニーと2人でカリフォルニア州サンタクララの小さなガレージカンパニーの1407号室を借り[6]1972年6月27日に創業した。ガレージの中を衝立で仕切り、手前は事務室、奥は工作室とした[6]
創業時

目的は大手アーケード会社にビデオゲームを売り込むことだったが、当初は「コンピュータースペース」の権利料が僅かに入って来るだけだった。そこで、ピンボール会社からピンボールを買い、近所のスタンフォード大学の近くでディストリビューター(アーケードゲームを買って設置し、金を回収する業務)を始めたところ、ブッシュネルが遊園地のゲームコーナーでアルバイトをしていた経験が役立ったのか収入は良く、アタリがすぐ潰れる心配はなくなった。

社員面ではまず3人目の社員として、ブッシュネルの娘のベビーシッターだったシンシア・ビランヌーバを、電話番兼受付嬢として雇った。次に、ブッシュネルが以前勤めていたテープレコーダー会社、アンペックス社の後輩、アラン・アルコーン(Allan Alcorn、通称:アル)を「副社長として、技術者として雇ってやる」と誘った。アンペックスではリストラが始まっていたので、アルコーンはブッシュネルに同意してアタリに引き抜かれ、4人目の社員となった。このアルコーンに「Odyssey」と似たゲーム『ポン』を作らせたところ[2]、大人気となり、ここからアタリおよびアーケードビデオゲームの大躍進が始まった。
『ポン』製造開始後

当初は時間と金を作っておく→電気屋等で資材を沢山買い込む→基板など電子部品を作る→空の筐体を置いて部品をあちこち付ける→売る→売り切ったら売れた金でまた資材を買うという、全くの自転車操業だった[7]。これでは毎日数台、どんなに頑張っても10台しか作れなかった。だが『ポン』は400ドルで作り[8]、1,200ドル即現金払いが飛ぶように売れた。この頃アメリカで最も人気のあったピンボールは、一日約100ドルを稼いでいたが、『ポン』は100ドル[8]から200ドル以上稼いだため、つまり3日で製造コスト、1週間で販売コストが回収できた。当時のアーケード業界は日米共にまだ認知度も企業信頼度も低く、銀行から融資してもらえるゲーム会社は大手だけだったが、アタリはこのような右肩上がりで、軍資金をどんどん貯めていった。

アタリは隣の部屋も借りる→潰れたローラースケート場を借りて工場に改造[7]→当時アメリカで最新設備の工場と、9ヶ月間に3回も移転、生産ラインの従業員は職安で片っ端から声をかけ、最終的には200人で毎日100台の生産能力を確保した[7]。それでも人手不足だったため、アタリの敷地に入って来た者なら誰でも節操なくスカウトした程だった。


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