アタナシオス派は、キリスト教において、アレクサンドリアのアタナシオスの指導の下に[1]、父なる神と子なる神であるキリストは同本質(同質とも。ホモウシオス[2]、ギリシア語: ?μοο?σιο?)であると主張した派を指す用語[3]。ラテン語表記から転写してアタナシウス派とも呼ばれる[3][注 1]。
同派につき、キリスト教を扱う専門的文献では「ニカイア派」「ニケア派」(英語: Nicene[4], Nicaean[5][注 2])等と呼び、「アタナシオス派」とはまず呼ばない(後述)。 「アタナシウス派(アタナシオス派)」は、アリウス派に対抗し、その後キリスト教主流派において正統と認められた一派として、日本の高等学校教育での世界史科目においてしばしば登場する用語であるが、キリスト教を扱う専門的文献にはこの用語はほとんど出て来ない[注 3]。 まず第一に、アレクサンドリアのアタナシオスの主張はアタナシオス一人によって始められたものではない。第一ニカイア公会議(第一全地公会)[注 4]においてアタナシオスがアリウス派に反駁したことで名声を得て、三位一体の教理確立が彼の主要な功績に数えられるのは事実であるが[6]、アタナシオスは公会議にアレクサンドリア主教アレクサンドロスの随行員・秘書として赴いており、その際の地位は輔祭(助祭・執事)であって、主教の意向を無視して独断で行動できる身分ではなかった[7][8](他方、20代の若年であったにもかかわらず活躍したことが特筆されもする[6])。特に、アタナシオスにとって師であるアレクサンドロスは、公会議以前からアリウス派に対する論駁を行っていた[9]。 また、アタナシオスの側に立った者の中には著名な聖人となった者もいるほか(例:ミラのニコラオス、ポワティエのヒラリウス)[10]、アタナシオス永眠後に、アリウス派に反駁して第一コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会)で第一ニカイア公会議での決定の再確認に寄与したのはカッパドキア三教父であり[11]、アタナシオス一人に三位一体論の教義・教理を帰するのは適切ではない。 このような事情もあって、キリスト教を専門的に扱う文献においては「アタナシオス派」といった用語は使われず、代わりにニカイア公会議の地名に由来する「ニカイア派」「ニケア派」「ニカイア正統派」といった用語が使われる[1][6][12][13][注 5]。
用語「アタナシオス派」「ニカイア派」