アスワン・ハイ・ダム
上空からみたアスワン・ハイ・ダム
正式名称Aswan High Dam
所在地 エジプト・アスワン
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯23度58分14秒 東経32度52分40秒 / 北緯23.97056度 東経32.87778度 / 23.97056; 32.87778
アスワン・ハイ・ダム (アラビア語: ?? ????? ?????? sadd ’asw?n al-‘?l?, 英語: Aswan High Dam)は、エジプトの南端部、アスワン地区のナイル川に作られたダムである。
アスワンダムは2つあるものの、現在では単に「アスワンダム」と言うとアスワン・ハイ・ダムを指すことが多い。1902年に完成した古いアスワンダムは、区別のためにアスワン・ロウ・ダム(Aswan Low Dam)とも呼ばれる。アスワン・ロウ・ダムは、1902年に完成して以降、数度にわたって拡張された。
アスワン・ハイ・ダムは、アスワン・ロウ・ダムの6.4 km上流に建設され、1970年に完成した。
概要アスワン・ハイ・ダム
アスワンダムの建設目的は、ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保である。しかし、1902年に作られたアスワン・ロウ・ダムだけでは力不足であったために、当時のエジプトのガマール・アブドゥル・ナセル大統領が、ソビエト社会主義共和国連邦の支援を受けてアスワン・ハイ・ダムを国家的事業として計画を立てた。
こうして1970年に新たに建設されたアスワン・ハイ・ダムは、堤の高さが111 m、堤の全長が3600 mの巨大なロックフィルダムである。アスワン・ハイ・ダムによって出現した、表面積5250 km2の巨大な人工の湖であるナセル湖の名は、ガマール・アブドゥル・ナセル大統領の功績を讃えて命名されたものである。
アスワン・ハイ・ダムの完成によって、毎年のように起こっていたナイル川の氾濫を防止すると共に[2]、12基の水力発電装置によって合計2.1 GWの電力が供給可能になった[注釈 1]。またダムにより出現したナセル湖から供給される水は、不足がちだった農業用水を安定させ、周辺の砂漠の緑化も行われた。さらに、ナセル湖での漁業は活発で、豊富な水産物は重要な食料として活用されている。なお、今では、周辺の遺跡と共に、ダム付近は観光地ともなっている。
その一方で、ナイル川の生態系のバランスを破壊したなどの批判もある。ナイル川が上流から運搬してくる土砂がダムによって遮られたために、ダムの下流では河岸の侵食、さらに、ナイル川河口部の三角州への土砂の供給も減少し、付近の海岸の侵食も起きている。また、そこに生息する生物にも影響が出ており、一部地域では住民に寄生虫による病気を増加させた。さらに、ナイル川の上流から運搬されてくる土砂がダム内に堆積することによって、いずれダム湖が埋まるなどの問題も存在する。この他、エジプトが観光収入を得る観光資源ともなっている遺跡への悪影響も懸念されている。
構造
堤高 - 111 m
堤頂長 - 3600 m
幅(基礎部分) - 980 m
厚さ(基礎部分) - 180 m
発電能力 - 2.1 GW (175 MWの水力発電機が12基)
沿革エジプトのナセル大統領 (中)と、ソビエト連邦のフルシチョフ首相 (右)ダム湖の出現により水没予定の遺跡を、分解して移築。アスワン・ハイ・ダムの記念塔。ダム湖の湖畔にある。
かつてナイル川の下流のエジプトでは、毎年夏にナイル川の氾濫によって洪水が発生していた。ただ、この洪水がナイル川流域に肥沃な土壌を形成することに役立っていた。つまり、この洪水は古代からのエジプトの文明を支えてきた側面があった。
しかし、19世紀中盤にこれまでの水路を深く掘り下げて、夏運河と呼ばれる通年灌漑用の水路とすることによって農業生産高が激増した。これにより流域の人口が激増すると、ナイル川の洪水は必ずしも農業生産に不可欠なものだとは認識されなくなった。逆に、住居や農地を押し流す洪水をコントロールしたいと考えられるようになった。
ナイル川は、アスワンのすぐ南で急流が続いており、船舶の航行が不可能となっている。そのため、アスワン(エレファンティネ)は古代エジプトにおいては長く南の国境とされ、ここより南はヌビアとして別の文明圏であると考えられていた。