アスレティック・ビルバオ
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アスレティック・ビルバオ
原語表記Athletic Club
[1]
愛称Los Leones (ライオン)
Euskaldunak(バスク
クラブカラー    赤
    白
創設年1898年
所属リーグラ・リーガ
所属ディビジョン1部(2023?24
昨季リーグ順位8位(2022?23
ホームタウンバスク州ビルバオ
ホームスタジアム
サン・マメス
収容人数53,332人
代表者 ジョン・ウリアルテ
監督 エルネスト・バルベルデ
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

アスレティック・ビルバオ(バスク語: Bilboko Athletic Kluba; スペイン語: Athletic Club de Bilbao)は、スペインバスク州ビルバオに本拠地を置くサッカークラブ。ラ・リーガに所属している。
概要

1929年以来継続してプリメーラ・ディビシオンに在籍しており、8回優勝している。コパ・デル・レイ(国王杯)では24回の優勝を誇る。

ラ・リーガ通算順位表ではレアル・マドリードFCバルセロナバレンシアCFアトレティコ・マドリードに次ぐ5位に位置し、レアル・マドリード、バルセロナとともに一度もセグンダ・ディビシオン(2部)に降格したことがない3クラブのうちのひとつである[2]

レアル・ソシエダとの対戦はバスクダービーとして盛り上がりを見せる。

「ロス・レオネス」(Los Leones、ライオンたち)という愛称がある。マメスはローマ人によってライオンの群れの中に投げ入れられたキリスト教徒であるが、ライオンたちはマメスの捕食を拒み、そうして彼は後に聖人となった。

アトレティックはスペインにおいて株式会社化を行っていない4つのクラブ(その他はレアル・マドリード、バルセロナ、CAオサスナ)のうちのひとつであり、ソシオ (socios) と呼ばれる組合員によって所有され経営されている。女子チームのアスレティック・ビルバオ・フェメニーノプリメーラ・ディビシオン・フェメニーナ(女子1部)で4回優勝している。
クラブ方針

1912年に最後の外国人選手がクラブから去って以降、選手は「バスク人」に限定するというクラブ方針を守っている。

この方針におけるバスク人は、生まれもしくは育ちがバスク州ビスカヤ県ギプスコア県アラバ県)、ナバラ州、またはフランス領バスクラブールスールバス=ナヴァールである選手の事を指す[3]。そのため、上記の条件を満たしていれば国籍を問わず入団する事が出来る[4]

例として、生まれは異なるが育ちがバスク地方であるベネズエラ代表のフェルナンド・アモレビエタや、ルーマニア代表のクリスティアン・ガネア[5]といった選手がクラブに入団している。

過去に祖父がバスクにルーツを持つゴンサロ・イグアインの獲得が噂された事があったが、クラブのスポーツディレクターであるラファエル・アルコルタは、クラブ方針を満たさない選手であると獲得を完全否定した[6]

前述のこのクラブ方針に賛否両論はあるが、地元出身者を積極的にトップチームに昇格させることや、クラブの忠誠心などが称賛されている。かつてはライバルのソシエダもアスレティック同様の方針を持っていたが、1989年以降のソシエダはバスク人以外の選手(スペイン国外出身選手)とも契約を交わすようになった。

アスレティックは外国人監督を招くことには積極的で、クラブ創設以降、多くのスペイン国外出身者が監督を務めた。

クラブには、レサマ (Lezama) と呼ばれる下部組織のピラミッドを通して若いバスク人選手を育成するというカンテラ方針があり、また、ホセバ・エチェベリアハビ・マルティネスなど、他クラブからの優秀なバスク人選手の募集も行っている。2022年には、優れた育成組織を持つクラブに贈られるUEFAグラスルーツ賞を受賞した[7]
歴史
20世紀
前身2クラブの合併コパ・デル・レイ初優勝時の選手達(1903年)

イギリスに繋がりがある異なる2つの集団によって、ビルバオにサッカーがもたらされた。製鉄業や造船業などに従事したイギリス人労働者と、イギリス留学帰りのバスク人学生である。19世紀後半のビルバオは、近隣に鉄鉱石鉱山や造船所を抱えた一級の工業港湾であった。この地域はスペイン経済の推進力となり、結果として多くの労働者移民を引きつけ、中にはイングランド北東部から移住した炭鉱労働者、サウサンプトンポーツマスサンダランドから移住した造船業従事者もいた。彼らはサッカーとともに育ち、1890年代初頭にイギリス人労働者が集ってビルバオFC (Bilbao Football Club) を形成。バスク人学生らがイギリス人労働者たちの対戦相手となっていたが、学生らは土木工学や商学を修めるためにイギリスに渡った。イギリスでサッカーへの興味を深め、ビルバオに戻るとイギリス人労働者たちとの試合に手を加え始めた。1898年、Gymnasium Zamacoisという総合スポーツクラブに所属していた学生たちは、英語のスペルを用いたサッカーチーム、アスレティック・クルブ (Athletic Club) を設立[2]。1901年4月5日、カフェ・ガルシアで集会が開かれて公式にクラブの設立が宣言された[2]。1902年に初開催されたコパ・デル・レイには、ビルバオFCとアスレティック・クラブの合同チーム(クルブ・ビスカヤ、Club Bizcaya)として参戦し、クラブ・ビスカヤは決勝でFCバルセロナを破って優勝した[2]。1903年、2つのクラブは正式に合併してアスレティック・クルブ (Athletic Club) となった[2]。同年にはバスクの学生がアスレティック・クルブ・マドリードを形成し、このクラブは後にアトレティコ・マドリードに発展した。アスレティック・クラブの創設日はサッカー史家の間で議論の対象となっており、クラブ自身は1898年創立であると発表しているが、本当の設立年は1901年もしくは1903年であるとする意見もある。
初期のコパ・デル・レイでの躍進

アスレティックは初期のコパ・デル・レイで顕著な活躍を見せた。クルブ・ビスカヤによる第1回大会優勝に続いて、新しく形成されたアスレティック・ビルバオは1903年の第2回大会でも優勝を果たした。1904年には対戦相手のクルブ・エスパニョール・デ・マドリードがスタジアムに到着できず、アスレティックが自動的に優勝となった。1907年、ウニオン・ビスカイーノとの合同チームとしてクルブ・ビスカヤという名称が復活した。数年間の停滞期を挟み、1911年に再び優勝すると、1914年から1916年までは3年連続で優勝。このチームのスター選手は卓越したゴールスコアラーのピチーチであり、1915年のコパ・デル・レイ決勝ではハットトリックを達成した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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