アスマ・ジャハンギール
[Wikipedia|▼Menu]

アスマ・ジャハンギール
????? ???????
Asma Jahangir
アスマ・ジャハンギール - 2010年、ルーズベルト4つの自由賞受賞後
生誕アスマ・ジラニ・ジャハンギール
(1952-01-27) 1952年1月27日
パキスタン, パンジャーブ州ラホール
死没 (2018-02-11) 2018年2月11日(66歳没)
パキスタン, パンジャーブ州ラホール
出身校キネアード女子大学
パンジャーブ大学
職業弁護士人権活動家
肩書きパキスタン最高裁判所判事
ラホール高等裁判所判事
パキスタン人権委員会創設者・議長
女性アクション・フォーラム創設者
略式手続による刑の執行 (1998-2004)、信教・信条の自由 (2004-2010)、イランにおける人権 (2016-2018) に関する国連特別報告者
受賞国連人権賞
ライト・ライブリフッド賞
マグサイサイ賞
信教の自由賞 (4つの自由賞)
パキスタン一等勲章 (Nishan-e-Imtiaz)
テンプレートを表示

アスマ・ジラニ・ジャハンギール(Asma Jilani Jahangir; ウルドゥー語: ????? ???????;

1952年1月27日 - 2018年2月11日)は、パキスタン弁護士人権活動家。ラホール高等裁判所(英語版)判事、パキスタン最高裁判所(英語版)判事を務めるほか、パキスタン人権委員会(英語版)および女性アクション・フォーラム(英語版)の創設者の一人であり、信教・信条の自由、略式手続による刑の執行およびイランにおける人権に関する国連特別報告者、人権のための南アジア・フォーラム議長、ディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナル(英語版)国際執行委員会委員などを歴任。パキスタンで初めて女性、子ども、強制労働者、囚人、宗教的少数派などの弱者に無償で法的支援を提供する法律事務所「AGHS法律支援」を設立。国連人権賞ライト・ライブリフッド賞マグサイサイ賞、信教の自由賞(4つの自由賞)など多くの賞を受賞した。
背景

アスマ・ジャハンギールは1952年1月27日、パンジャーブ州ラホールに生まれた。父マリク・グラム・ジラニは公務員で退職後に政界に進出したが、バングラデシュ独立戦争(1971年)におけるパキスタン政府による武力鎮圧やベンガル人の大量殺戮を非難したことで投獄され、その後もパキスタン軍事政権を批判したことで数年にわたって投獄および自宅軟禁された[1][2][3][4]。母ベグム・サビハ・ジラニは、高等教育を受けたムスリム女性がほとんどいなかった時代に、ラホールにあるキリスト教系の大学で学んだ初のムスリム女性であり[4][5]、1967年に処罰として一家の土地を没収されたときには衣料品店を開店して家計を支えた[1][6]。ジャハンギールは4人兄弟姉妹で、妹のヒナ・ジラニ(英語版)は後にジャハンギールと同様に最高裁判事を務め、人権活動家として活動を共にすることになった。ジャハンギールは18歳のときに、逮捕された父を釈放するよう最高裁に申し立てを行った。申し立ては棄却されたが、後に軍事法によるこの逮捕は違法であるとの判決が下された[1]

ジャハンギールは1974年にキネアード女子大学で教養学士号、1978年にパンジャーブ大学(英語版)で法学学士号を取得した。また、後に、クイーンズ大学、(カナダ、1998)、ザンクトガレン大学(スイス、1998)、アマースト大学(米国、2003年)から名誉博士号を授与されている[7]
経歴・主な功績
パキスタン人権委員会 - 名誉殺人

1980年からラホール高等裁判所判事、1982年からパキスタン最高裁判所判事、1986年からはパキスタン最高裁弁護士会の執行委員会会員(後に女性初の会長)を務める一方、1980年代からヒナ・ジラニらとともに人権活動家として活躍し、パキスタン(特にムハンマド・ジア=ウル=ハク軍事政権下)の人権侵害について調査し、抑圧されている女性や宗教的・民族的少数派を保護するためにパキスタン人権委員会を設立した。近年、人権委員会が行った調査により、ようやくパキスタンにおける名誉殺人の実態が明らかにされつつある。たとえば、毎年1,000人(2015年には1,100人)近い女性が婚外性交渉や親の認めない付き合いを疑われ、家の名誉を汚したとして親族に殺害されているが[8][9][10][11]、それでもなお、「このような残忍な事件は日常的に広がった暴力の一環」であり、実際には「どれくらい広まっているのかを推定するのは難しい」という[12]。結婚を拒否したり離婚を申し立てたりした場合も同様であり、ジャハンギール弁護士とジラニ弁護士が担当した離婚申し立てでは、当事者が、母親が面会に連れて来た運転手に殺害され、ジラニ弁護士も重傷を負った。二人はペシャワール商工会議所の会頭職にあった父親に「二人の弁護士こそ娘を殺した張本人だ」として提訴された[12]。また別の事件では、ジャハンギール弁護士がある離婚訴訟で高等裁判事に「あなたのいるべき場所はここではなく、刑務所だ」と罵声を投げつけられた。彼女は他にも離婚訴訟中に裁判所を出たところで襲われた女性や、一部の者から伝統やイスラムに反すると見られた評決を出したために命を落とした判事のことなどに触れ、「パキスタンは、まだ人権を尊重することの必要性さえも理解していない国だ」と語った[12]

ジャハンギールは歯に衣着せぬ物言いで知られている。たとえば、ドナルド・トランプは共和党大統領候補であった頃からすでに米国へのイスラム教徒の入国を一切禁止するよう政府に求めていたが、ジャハンギールはこれについて、「これは最も無知で偏狭な考えだ。米大統領を目指す人が、パキスタンにいる無知な宗教指導者と競うなどとは思いもしなかった。われわれは米国ほど進歩していないが、決してそのような人々を選んだりしない」と批判した[13]
女性アクション・フォーラム、弱者に対する無償法的支援

ジャハンギールとジラニは、ハク軍事政権下で1979年に制定されたフドゥード法(イスラム法上のハッド刑を明文化したもの)、特に女性の証言は男性の半分の効力しかもたないという規定などに抗議して女性アクション・フォーラムを設立した[1][14]。さらに、パキスタンで初めて女性、子ども、強制労働者、囚人、宗教的少数派に無償で法的支援を提供する法律事務所「AGHS法律支援」を設立し、次いで設立した「AGHS法的支援センター」は女性のためのシェルターの役割も担うことになった[2][15][16]

パキスタンでは冒涜法、特に「神聖なる予言者ムハンマドの名を汚す」者は死刑もしくは終身刑に処されるという刑法第295-C項(「アーシア・ビビ事件」参照)が宗教的少数派(キリスト教徒、シーア派アフマディー派のイスラム教徒、ヒンドゥー教徒など)を脅迫するため、財産没収・職業剥奪のため、紛争に起因する報復のためなどに悪用されることが多く、事実無根の訴えにより死刑判決を受けたり、上訴審を待ちながら何年間も収監されたり、または私刑により殺されたりしている[17]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:44 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef