アストラッド・ジルベルト
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アストラッド・ジルベルト
Astrud Gilberto
スイングジャーナル』1965年5月号より
基本情報
出生名Astrud Evangelina Weinert
生誕 (1940-03-29) 1940年3月29日
ブラジルバイーア州サルヴァドール
死没 (2023-06-05) 2023年6月5日(83歳没)
アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア
ジャンルボサノヴァジャズポピュラー音楽
活動期間1963年 - 2023年
レーベルヴァーヴユニバーサルCTI、Perception
共同作業者ジョアン・ジルベルトスタン・ゲッツアントニオ・カルロス・ジョビン
公式サイト ⇒astrudgilberto.com

アストラッド・ジルベルト(ブラジルポルトガル語:Astrud Gilberto(アストルーヂ・ジウベルト)、1940年3月29日 - 2023年6月5日)は、ブラジル出身の、ボサノヴァジャズポピュラー音楽の歌手。
来歴1966年、アムステルダムにてジルベルトとスタン・ゲッツ1970年、リオデジャネイロにて

1940年3月29日、アストラッドは、ブラジル・バイーア州サルヴァドールでアストラッド・エヴァンジェリーナ・ワイナート(Astrud Evangelina Weinert)としてブラジル人の母とドイツ人の父親の間に生まれ、リオ・デ・ジャネイロで育った[1]

1959年ジョアン・ジルベルトと結婚し、1963年アメリカ合衆国に移住。同年3月、アストラッドはアルバム『ゲッツ/ジルベルト』に参加し、ジョアン・ジルベルト、スタン・ゲッツアントニオ・カルロス・ジョビンと共にレコーディングを行った(発売は翌1964年)[2]。そのときまで彼女はプロの歌手として歌ったことはなかったが、彼女の歌声にプロデューサーのクリード・テイラーが目をつけ、彼女が英語で歌う「イパネマの娘」が作られ、世界的にヒットした。「イパネマの娘」の大成功後、ソロ・デビューを果たし、ブラジルのボサノヴァとアメリカのジャズ・スタンダードの架け橋的な存在となる。1970年代には自身で作曲をし、レコーディングを行った[1]。ジョアンとアストラッドは1960年代の半ばに離婚した。

彼女はボサノヴァの代表的な歌手という、海外における一定の評価もある反面、英語で歌ったために、ブラジル国内ではあまり実績を残していない。そのため、同国内における評価はあまり高くない。サンバ歌手で有名なベッチ・カルヴァーリョなどもその点を指摘したコメントを残している。

動物虐待や動物実験には批判的な姿勢を持っており、動物の権利を主張して自らも反対運動に参画している。

2023年6月5日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアの自宅にて死去、83歳没[3]
ディスコグラフィ詳細は「:en:Astrud Gilberto discography」を参照
リーダー・アルバム

『ゲッツ・オー・ゴー・ゴー』 - Getz Au Go Go (1964年、Verve) ※with
スタン・ゲッツ

『おいしい水』 - The Astrud Gilberto Album (1965年、Verve)

『いそしぎ』 - The Shadow of Your Smile (1965年、Verve)

『ルック・トゥ・ザ・レインボウ』 - Look to the Rainbow (1966年、Verve)

『サマー・サンバ』 - A Certain Smile, a Certain Sadness (1966年、Verve) ※with ワルター・ワンダレイ

『ビーチ・サンバ』 - Beach Samba (1967年、Verve)

『ウィンディ』 - Windy (1968年、Verve)

『あなたと夜を』 - I Haven't Got Anything Better to Do (1969年、Verve)

『ジルベルト・イン・セプテンバー』 - September 17, 1969 (1969年、Verve)

『ゴールデン・ジャパニーズ・アルバム』 - Gilberto Golden Japanese Album (1970年、Verve)

『ジルベスト・ウィズ・タレンタイン』 - Gilberto with Turrentine (1971年、CTI) ※with スタンリー・タレンタイン


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