アジアサッカー連盟
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アジアサッカー連盟
略称AFC
設立1954年
種類サッカー
本部 マレーシア
クアラルンプール
会員数47協会[1]
会長 シャイフサルマーン・ビン・イブラーヒーム・アール=ハリーファ
関連組織国際サッカー連盟(FIFA)
ウェブサイト ⇒www.the-afc.com
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アジアサッカー連盟(アジアサッカーれんめい、: Asian Football Confederation, 略称はAFC)は、アジアを中心にオセアニアの一部を含む国と地域の47のサッカー協会を統括する、国際サッカー連盟(FIFA)傘下のサッカーの競技団体。1954年5月8日に設立。事務局の所在地はマレーシアクアラルンプール。スローガンは「ONE ASIA ONE GOAL」。47協会が加盟しているが[1]、その内、FIFAから公認されているのは、46協会である[例 1][2]

2005年まではオセアニアサッカー連盟(OFC)に所属していたオーストラリアが2006年1月1日付けでAFCへ転籍し、最も広大な領域を持つサッカー連盟となった。その広大さゆえに生ずる諸問題等を解決する為に、AFC内の委員会で分割が検討されている。
概要.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年5月)

現在、AFCは世界でもっとも広大な地域を管轄するサッカー協会である。その範囲は、東はオーストラリアグアム、西はパレスチナレバノンシリアにまで及び、加盟国間の東端と西端の間では季節によっては8?9時間の時差があるほどである。加盟国間の総人口も、中国インドの両国を抱えるだけに、世界の総人口の約半数にも達する。

しかし、抱える問題も数多い。その1つに、中東の産油国を抱えているため、オイルマネーに流されやすい傾向が挙げられる。近年はその風潮も和らいではいるものの、90年代まではFIFAワールドカップアジア予選開催地に中東のスタジアムを選ぶ(1994年アメリカ大会アジア予選までは集中開催方式が中心だった)など、中東・湾岸諸国が有利になるような大会運営が散見された。また前述の通りAFCは統括範囲が広範囲に及ぶため、ホーム・アンド・アウェーで試合を行うと、長距離移動による選手の疲労が無視できないなど、アジアならではの問題も抱えている。

アジア人プレイヤーとしてヨーロッパのクラブでプレーする選手も年々増えており、彼らの功績や経験もアジアサッカー界全体のレベルアップにも繋がっていると言える。世界最高峰の大会であるUEFAチャンピオンズリーグにも毎シーズンアジア国籍のプレイヤーが出場しており、冨安健洋久保建英などが活躍している。しかし、欧州のクラブに在籍していても試合に出場する事が出来ないという事例もまだまだ多く、オーストラリア、日本、韓国、イランなどの一部のアジアの強豪国の選手を除くと欧州でプレーすること自体が困難な現状もある(例外的に、ウズベキスタンのマクシム・シャツキフ、オマーンのアリ・アル・ハブシなどがいる)。

また、発展途上国も加盟しているAFCは、2009年に、収益の1パーセントを寄付する事業をはじめとする「ドリームアジア・プロジェクト」を発足させるなど、社会貢献活動を積極的に行う姿勢を示している。2010年5月には、世界的な飢餓問題の解決に向けてFAO(国際食糧農業機関)とパートナーシップ協定を締結した。
歴史

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年5月)

1980年代まで

フィリピン首都マニラで開催された1954年第2回マニラアジア大会がきっかけとなり、アジア各国のサッカー協会の代表者らがマニラアジア大会開催中の1954年5月8日にアジアサッカー連盟(AFC)を設立し、マレーシア首都クアラルンプールに本部を置いた。同年6月21日、AFCはFIFAからFIFA傘下の地域連盟として承認された[3]。この時のAFC創設メンバーはアフガニスタンミャンマー台湾香港インドインドネシア日本韓国パキスタンフィリピンシンガポールベトナムイスラエルの13か国である(なお、AFCは政治的配慮により今もなお、イスラエルを創設メンバーとして認めておらず、AFC創設メンバーは12か国であるとしている)[3][4]。当初はイスラエル韓国がアジアの強豪であったが、アラブ・中東諸国がオイルマネーガルフカップを背景に台頭し、特に1970年代にはイランAFCアジアカップで3連覇を達成した。その後、サウジアラビアイラククウェートUAEなども加わり、1990年代前半までは、1986年FIFAワールドカップ・メキシコ大会に8大会ぶりに本大会出場を果たした韓国を除き、ほぼ西アジア諸国のなすがままとなった。

イスラエルは、AFC創設メンバーだったが、イスラエル=アラブ紛争(パレスチナ問題および中東戦争等)により周辺アラブ諸国との関係が悪化し、アラブ諸国を中心としたボイコット(対戦拒否、大会参加拒否)が激化。1973年10月6日第四次中東戦争が起こると、対戦不可能な状態に陥った。そして、テヘランアジア大会の大会期間中の1974年9月14日に、イラン首都テヘランで開催されたAFC総会で除名された[5]。なおテヘランアジア大会のサッカー競技イスラエルは出場しており、決勝を地元イランと戦い、0-1で敗れた。この試合がAFCとしてのイスラエルの最後の試合となった。その後、地域連盟未所属のまま活動を続け、除名されていながらアジア・オセアニア予選に組みいられたり、欧州予選に参加したり、オセアニア予選に参加したり、オセアニアサッカー連盟(OFC)の暫定メンバーになったりなどの紆余曲折を経て、1992年から欧州サッカー連盟(UEFA)に加盟した。
1990年代

1990年代に入っても、イランやサウジアラビア等の中東勢及び韓国がアジアでの強豪の地位を占める一方、ダイナスティカップ1992AFCアジアカップ1992で優勝した日本が、徐々にこれらアジアのサッカー強国に並ぶ地位へと浮上する。

ソビエト連邦(ソ連)の崩壊に伴い、独立した中央アジア5ヶ国(ウズベキスタンカザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタン)は、ソ連が欧州サッカー連盟(UEFA)だったため、UEFAかAFCか選択できた。中央アジア5か国とも、1994年に一斉にAFCへ新規加入を果たした[6]。その中央アジア5カ国の一員で、AFC新規加入年の1994年に行われた広島アジア大会サッカー競技でいきなり優勝を遂げたウズベキスタンAFCアジアカップで決勝トーナメント進出の常連となった中国等が、アジアのサッカー強豪国へと名乗りを挙げた。
2000年代

1994年にAFCに新規加入したカザフスタンは選手やファンの反対(UEFA加盟を希望)を押し切って加入したAFCでもワールドカップ本大会出場を果たせなかったことから2001年にAFCを脱退し、2002年4月からUEFAに加盟した。AFCに同時に加盟したウズベキスタンも、2005年9月3日の2006年独W杯アジア予選アジアプレーオフバーレーン戦の裁定への不満(吉田寿光主審の誤審問題)からUEFA転籍を示唆したが、最終的には、転籍せずAFCに残留した。

2006年独W杯で決勝トーナメントへ進出したオーストラリア(以下豪州と略すことあり)は、「W杯オセアニアサッカー連盟(OFC)独自出場枠が無く32年間当時の大陸間プレーオフ南米などの強豪国にW杯出場を阻まれ続けたこと(当時の大陸間プレーオフは、オセアニアは南米と対戦でほぼ固定)」、「W杯オセアニア予選でも10点差以上の大差がつくなど他のOFC加盟国と実力差が大きすぎ強化につながらないこと」を理由に、以前からAFC転籍を希望していた。初めて時差なしで観戦出来た2002年日韓W杯で、オーストラリア国民のサッカーへの関心が高まったことに商業的価値を見出したジョン・ハワード豪州首相が、豪州サッカーのアジア進出を計画[7][8]。以降、豪州政府の後押しを受け、オーストラリアサッカー連盟が念入りにロビー活動を展開した結果、AFC転籍を許可され、2005年4月17日OFCを脱退し、2006年1月1日付けでAFCに加盟した(ただし、オーストラリアは既に2005年オセアニアサッカー連盟(OFC)代表として出場権を獲得していた為、2006年独W杯へはOFC代表として出場した)。


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