アシュビル_(ノースカロライナ州)
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アシュビル市
Asheville, North Carolina

アシュビル市の中心街




愛称 : 空の土地、南部のパリ
位置

ノースカロライナ州におけるアシュビルの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度34分48秒 西経82度33分21秒 / 北緯35.58000度 西経82.55583度 / 35.58000; -82.55583
歴史
市1797年
行政
アメリカ合衆国
 ノースカロライナ州
 バンコム郡
アシュビル市
Asheville, North Carolina
市長テリー・M・ベラミー
地理
面積 
  域107.0 km2 (41.3 mi2)
    陸上  106.0 km2 (40.9 mi2)
    水面  1.0 km2 (0.4 mi2)
      水面面積比率    0.94%
標高650 m (2,134 ft)
人口
人口(2020年現在)
  域94,589人
  備考[1]
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : ⇒www.ashevillenc.gov
アシュビル市役所、1920年代アール・デコ調の典型的なものである。ビルトモア荘園のビルトモア・ハウス、250室以上もあるアメリカでは最大の家屋。個人の住居として建設され、屋内プールやボウリング場を備える。現在でも隣接する庭園と合わせ、この1902年撮影の写真と同じ眺めを楽しめる

アシュビル(: Asheville)アメリカ合衆国ノースカロライナ州の都市。バンコム郡郡庁所在地である。人口は9万4589人(2020年)。ノースカロライナ州西部では最大の都市であり、現在でも成長を続けている。4つの郡により構成されるアシュビル都市圏の中核である。Relocate-America.com の「2007年アメリカで住みたい場所100傑」では1位となり、2005年時点でも9位だった。
歴史
設立

ヨーロッパ人が到来する以前、アシュビルが現在ある土地はチェロキーインディアンの領土内に入っていた。[2]1540年、スペインの探検家エルナンド・デ・ソトがこの地域を訪れた最初のヨーロッパ人になった。[3]その後ヨーロッパの伝染病が蔓延したことで、著しくインディアンの人口を減らした。[4]この地域は19世紀半ばまで公開の猟場として使われていた。

町としてのアシュビルの歴史は1784年に始まった。この年、サミュエル・ダビッドソン大佐とその家族がノースカロライナ州から兵士に与えられた土地特許を実行に移して、スワナノア渓谷に入植した。ダビッドソンはクリスチャン・クリークの岸に丸太小屋を建ててから間もなく、チェロキー族の1隊に森の中に誘い出されて殺された。ダビッドソンの妻と子供達、および女奴隷が16マイル (26 km) 離れたダビッドソン砦(ダビッドソンの父ジョン・ダビッドソン将軍に因んで名付けられていた)まで徒歩で逃げた。

この殺人に反応してダビッドソンの双子の弟ウィリアム・ダビッドソン少佐と義理の息子ダニエル・スミス大佐が遠征隊を組織し、ダビッドソンの遺体を回収し、殺人に対する報復をした。この遠征隊から数ヶ月後にダビッドソン少佐やその一族がこの地域に戻り、ビーツリー・クリーク河口に入植した。

1790年の国勢調査ではこの地域に1,000人の住人がいることになっていたが、この数字にはチェロキー族は入っていなかった。バンコム郡は1792年に正式に創設された。1793年に「モリスタウン」と名付けられた郡庁所在地が2つの古いインディアン道が交差する大地に造られた。1797年、モリスタウンに市制が布かれ、ノースカロライナ州知事サミュエル・アシュに因んで「アシュビル」と改名された[5]
南北戦争

アシュビルは1861年の人口が2,500人ほどであり、比較的南北戦争の局外に置かれていたが、南軍に多くの中隊を供給した。それでも北軍に比べれば実質的に少数に過ぎなかった。暫くの間、エンフィールド銃製造施設が町の中に置かれていた。戦争は忘れた頃に訪れ、1865年4月上旬に現在ノースカロライナ大学アシュビル校がある場所で「アシュビルの戦い」が行われ、北軍は南軍の年長者や年少者予備役の小集団およびバンコム・ターンパイクを横切って準備された塹壕線に集まった南軍兵の抵抗に遭って、テネシー州に撤退した。北軍には大きな損失無しにアシュビルを占領できるときのみ実行するよう命令が出ていた。

その月遅くより大部隊であるストーンマンの襲撃の一部として、スワナノア峡谷でも戦闘が行われ、北軍はノースカロライナ州西部の南軍指揮官マーティン准将の抵抗に遭って退却したが、ハワード峡谷やヘンダーソン郡を経由してこの地域に戻ってきた。4月下旬、北軍のストーンマン将軍が全体指揮を執る部隊がアシュビルを占領した。この部隊は交渉後に出発したが、その後戻ってきて町の南軍支持者の家を多く略奪し燃やした。戦争が終わった後の数年間、敗れた南部の大半と同様にバンコム郡は経済的にも社会的にも困難な時代を過ごした。
1900年代から現在

アシュビルは1910年代から1920年代に繁栄したが、世界恐慌の打撃が極めて大きかった。1930年11月30日、アシュビルにあった6つの銀行全てが破綻した。ワコビアだけがウィンストン・セーラムからの現金注入で開店した状態を続けた。その前の10年間で爆発的な成長を遂げていたために市債という形で持っていた市の一人当たり負債は国内の都市でも最大級になった。裁判所と市役所、道路の舗装、ボーキャッチャー・トンネル、学校の建物および市民公園といった幅広いインフラの改良のために、1929年には市とバンカム郡併せて公債借入金5,600万ドル以上に対する支払が必要だった。市は債務不履行とはならずに50年間以上掛けて借金を払った。世界恐慌の始まったときから1980年代まで、アシュビルの経済成長は緩りだった。この景気低迷の期間中心街の建物の大半が変更を加えられずに残った。このことで、国内でも最も印象的で包括的なアール・デコ調建築物の集積になった[6]

アシュビル地域は1916年7月15日から16日にかけて、熱帯低気圧の名残のために厳しい洪水を経験し、300万ドル以上の被害を出した。2004年9月にもハリケーン・フランシスとハリケーン・アイバンの名残からの激しい雨で、特にビルトモア村で大きな洪水になった。

2003年100周年記念オリンピック公園爆破犯人エリック・ロバート・ルドルフが、連邦裁判所の罪状認否のためにマーフィーからアシュビルに移送された。

アシュビルはその歴史の中で少なくとも2つの渾名を受けてきた。

「空の土地」はフランシス・フィッシャー・ティアナン(筆名クリスチャン・リード)の同名小説に因むものである。

「南部のパリ」(ルイジアナ州ニューオーリンズサウスカロライナ州チャールストンも同じ事を主張している)

非公式な渾名である「リンゴの土地」はあまり認識されることが無かった。合衆国の中でもアシュビルから大量のリンゴが輸出されたことを知る者は少ない。
市の概要

アシュビルは様々なもので国内ランキングに浮かび上がっている。「モダン・マチュリティ」は「最も活動的な場所になるところ50」の1つに挙げた[7]。「アメリカンスタイル」誌は「アメリカで芸術の目的地トップ25」の1つに挙げた[8]。「セルフ」誌は「女性にとって最も幸せな都市」とした[9]。「AAPPマガジン」では、「貴方の人生を再創造する最良の場所」の1つになり[10]、「ローリング・ストーン」では「アメリカの新しい変人首都」に選んだ。


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