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アシャンティ王国
Asanteman
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アシャンティ王国(アシャンティおうこく、英語: Ashanti Empire, Asante Empire)は、1670年から1902年まで、現在のガーナ内陸部にあった王国。アシャンティ連合、アシャンティ帝国とも。首都はクマシ。奴隷貿易により繁栄するが、イギリスとの四次に渡るアングロ・アシャンティ戦争(英語版)の結果、イギリスに併合された。その後、植民地政府の許可の下、アシャンティ王がクマシに帰還し、アシャンティ王国はガーナ独立後の現在も、ガーナ共和国政府が認める正式な立憲君主制王国としてガーナ共和国内に存在している[注釈 1]。 17世紀、ガーナ南部内陸部の森林地帯に居住するアシャンティ人 アシャンティ連合は元々軍事的な連合であったが、結合が深くなるに従い、王権の象徴「黄金の床几」(黄金の玉座)の元に団結する宗教的な連合の色彩も帯びてくるようになった。この床几はオセイ・トゥトゥ(en
目次
1 歴史
1.1 建国
1.2 体制
1.3 滅亡
2 脚注
2.1 注釈
2.2 出典
3 関連項目
4 外部リンク
歴史詳細は「ガーナの歴史(英語版)」を参照
建国
体制
王位継承は完全な母系で、執政は王(アサンテヘネ)(en)が行うものの、王位継承権は母から娘へと受け継がれ、王位継承権者の婿などが王に即位する体制だった。国王は統治権を持っていたものの、長老会議が存在して助言の役割を果たし、また青年集団の代表が長老会議に必ず参加し、人民の声を徴する体制であり、王権は制限されていた。王母は強い権威を持ち、王が退位した場合に次の国王を選出する権限を持っていた。
滅亡詳細は「イギリス・アシャンティ戦争」を参照
海岸部のイギリス人とアシャンティ商人とのアングロ・アシャンティ戦争は、1824年に第一次が勃発し、交易によって手に入れたヨーロッパ製の銃火器により、第二次(1873年 - 1874年)、第三次(1893年 - 1894年)と続けたが、最後の第四次(1895年 - 1896年)でアシャンティは独立を喪い、国王プレンペー1世(en)はセーシェルへと流された。国王不在のアシャンティはイギリスの属国となったが、1900年、イギリスのホジソン総督(en)が黄金の床几をアシャンティに要求。結果、王太后を中心としてアシャンティ全土でイギリスへの大反乱(黄金の床几戦争)が起こり、1901年にイギリスに併合され、イギリス領ゴールドコーストの一部となった。
その後、アシャンティ王は植民地政府の許可の下、クマシに帰還した。ガーナ独立後の現在、アシャンティ王国はガーナ憲法によってガーナ共和国内の立憲君主制王国として承認されている。アシャンティ王国の王もガーナ憲法によって正式な王位を認められており、国家元首である大統領以上の権力を持っているとも言われている。 [ヘルプ]
脚注
注釈^ 大統領を国家元首とする共和国内に中央政府の認めた正式な王位や王国を持つ国家としては、他にウガンダ共和国やフランス共和国などがある。
出典
関連項目
アシャンティの伝統的建築物群
エルミナ城
外部リンク
アシャンティの人々及び歴史(英語)
更新日時:2019年2月4日(月)11:01
取得日時:2020/02/10 18:45