アシカ作戦
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採用されなかった陸軍による初期のアシカ作戦計画案

アシカ作戦(アシカさくせん、独:Unternehmen Seelowe、英:Operation Sea Lion)は、第二次世界大戦中にドイツが計画したイギリス本土上陸作戦の呼称。作戦は準備まで進められたが、英本土航空戦の結果が思わしくなく、1940年9月に無期限延期となり、結局実施されることはなかった。アシカ作戦は原語であるドイツ語をカタカナ書きしてゼーレーヴェ作戦、同じく英語をカタカナ書きしてシーライオン作戦とも呼ばれる場合がある。
背景

1939年9月の開戦以前から、ドイツには、ポーランド侵攻計画(Fall Weiss)やフランス侵攻計画(Fall Gelb)は存在したが、対英戦については、いくつかの小規模な研究案があるだけだった。

1940年5月10日に始まったドイツ軍の攻勢は、アルデンヌの森を抜け5月20日には先鋒のグデーリアンの装甲軍団はアブビル近郊で英仏海峡に到達し、英仏連合軍左翼は分断されてしまった。

イギリス国内では、"もはやフランスでの戦争は負けだ"、という見方が広まっていた5月26日、イギリス外相のハリファックス卿は、内閣にイタリアを仲介して和平交渉を行うことを提案した。2週間前に首相に就任したばかりのチャーチルは、徹底した対独強硬派で、これに強く反対したが、保守党内には党首であるチェンバレン前首相やロイド・ジョージ元首相など交渉案を支持する有力議員も多く、閣内の意見は割れた。チャーチル首相は、9回の閣議の末、戦時内閣に入っていた労働党のクレメント・アトリーとアーサー・グリーンウッドの助けを借りて、なんとかハリファックス卿の交渉案を葬った[1]

6月4日には、チャーチルは、有名な 'We shall fight on the beaches'演説を国会で行い、継戦意志を内外に表明した。

6月22日には、新たにフランスで成立したヴィシー政権と休戦協定が成立し、ヒトラーはイギリスとの戦争を終わらせてしまいたかったが、チャーチルのイギリスは徹底抗戦の構えで、ドイツは手詰まりに陥ってしまった。

このため、ドイツ側では、対英戦略を練りなおすことになり、その中には英本土上陸作戦も含まれていたが、上陸作戦についての三軍の考え方には、大きな違いがあった。
作戦計画に至るまで

6月になり、対フランス戦の行方が見通せるようになり、ドイツの陸軍と海軍の作戦部は、それぞれお蔵入になっていた英本土上陸作戦の研究案を引っ張り出して、再検討を始めた。

6月30日、OKW主催の情勢検討会議が行われ、OKWのヨードル作戦部長が提出した対英戦略の選択リストには、以下の6つがあげられていた。

外交交渉(和平)

経済封鎖

恐怖(恐惶爆撃)

侵攻

間接アプローチ(ジブラルタル、エジプトなどイギリス本土以外の海外領土への攻撃)

防禦戦略(イギリスは放置し、動員を大幅に解除して国内経済基盤の強化)

海軍は、4月のノルウェー侵攻(ヴェーザー演習作戦)で、多くの艦艇が失われるか損傷しており、英本国艦隊に対して大幅に劣勢であったので、すくなくとも1940年中の上陸作戦実施には反対で、実施するのであれば、戦艦ビスマルク戦艦ティルピッツが就役する見込みの1941年春が望ましいとした。海軍作戦部は、10万人を越える兵員と機材の輸送能力がそろうのは早くても8月であり、英仏海峡の海洋気象条件から上陸作戦実施が可能なのは9月末までで10月以降は不可とも指摘した。海軍は、経済封鎖と間接アプローチを支持していた。しかし、当時、大西洋で常時展開できるUボートの数は15隻程度[2] であり、経済封鎖を行うにはまったく不十分な数であった。

空軍のゲーリングは、経済封鎖は効果が出るまで時間がかかりすぎであり、また上陸作戦はコストがかかりすぎであり、既にダンケルクで敗れて弱体化しているイギリスには、空軍がオランダでやったように恐惶爆撃で抗戦意志を挫いて、和平交渉の場に引き出せる、と考えていた。

一方、陸軍内では、経済封鎖や空爆だけで戦争を終わらせることは出来ず、英本土が将来大陸反攻の基地になることが予測されるため、上陸作戦の支持者は多かった。

ヒトラーは、イギリス側との外交交渉余地を残すため、空軍には都市爆撃を禁じていたが、それ以外にドイツ側で和平交渉のための外交努力がなされていた記録は、ヒトラーの平和か全面的破壊か”という恫喝調の7月19日国会演説[3] しか見つかっていない。明らかに、ヒトラーは、最初と最後の選択肢は選択しなかったようだが、明確に一つを選んだわけでもなかった。6月30日の会議では、ヒトラーは、ソ連侵攻作戦の研究を始めるようOKH(陸軍総司令部)に指示している。

海軍作戦部(SKL)のクルト・フリッケ少将によって纏められた海軍の上陸作戦案は、イギリスがダンケルクでの打撃から回復しきらないうちに、可能な限り早期に、英本土南東部へ狭い正面で上陸作戦を行うというものであった。

一方、OKHによる上陸作戦案は、7月13日にヒトラーに提示されたが、それは海軍からの情報が入っていない、輸送能力を考慮しないものであった。すなわち、ラムズゲートからライム湾までの8箇所に、13個師団(26万人)を2ないし3日の間に一挙上陸、第二波を含めると総計40個師団を上陸させるというものだった。

7月16日に、ヒトラーは、総統指令第16号を発し、その中で、英本土上陸作戦(アシカ作戦)の具体的な作戦計画の立案とその準備を8月中頃までに完了する事を命令した。

上陸作戦案については、輸送能力にみあった限られた上陸地点を主張する海軍案と、一挙に広範な上陸地点を主張する陸軍案で、両者の間で激論になったが、ヒトラーが間に入って、輸送能力にみあった計画を協力して作るよう指示した。7月中旬から8月の終わりまで、OKH、SKL、OKWの間で、激しい論争が続いたが、最終的に、輸送能力を考慮して妥協して決まったのが、8月30日版のアシカ作戦案である。
上陸作戦計画(1940年9月)

作戦の実施想定時期は、9月の中頃。上陸作戦第一日をSデーとする。上陸船団の航路をイギリス水上部隊の介入から防衛するために、事前に防御用機雷帯の設置が必要で、このために、S-10デーに、作戦の実施を決定する必要がある。

第一波の上陸部隊は、Sデーの早朝に以下の地点に上陸する。

上陸地点B フォークストンの西

XIII軍団(第17、第35歩兵師団) 第7航空師団の空挺降下


上陸地点C ライ、
ヘイスティングスの東

VII軍団(第7歩兵師団、第1山岳兵師団)


上陸地点D ベクスヒル=オン=シーイーストボーン

XXXVIII軍団(第26, 第34歩兵師団)



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