アクロン_(オハイオ州)
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アクロン市
City of Akron

愛称 : Summit City(頂点の街)、Rubber Capital of the World(世界のゴムの都)[1]、City of Invention(発明の街)
位置

サミット郡内の位置
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度4分23秒 西経81度31分4秒 / 北緯41.07306度 西経81.51778度 / 41.07306; -81.51778
歴史
設立1825年
行政
アメリカ合衆国
 州オハイオ州
 郡サミット郡
 市アクロン市
市長シャマス・マリク(英語版)
地理
面積 
  市域161.54 km2 (62.37 mi2)
    陸上  160.66 km2 (62.03 mi2)
    水面  0.88 km2 (0.34 mi2)
標高306 m (1,004 ft)
人口
人口(2020年現在)
  市域190,469人
  備考[2]
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : ⇒http://www.akronohio.gov/

アクロン(Akron [?akr?n][3])は、アメリカ合衆国オハイオ州の都市。サミット郡の郡庁所在地である。人口は19万0469人(2020年)。州内ではコロンバスクリーブランドシンシナティトレドに続く第5の都市である。クリーブランドの南55kmに位置する。

アクロンは1825年に創設され、その初期から運河交通の要所となり、様々な産業が興った。南北戦争前後から20世紀初頭にかけては、北軍の食糧となったオーツ麦のバー、全米初のパトロールカー、ヨードを添加した食塩など、次々と発明品が生み出された。同じ頃、グッドリッチグッドイヤーファイアストン、ゼネラルタイヤと、タイヤメーカーが相次いで創業し、これらタイヤメーカーが労働者用の住宅地開発にあたったこともあって、1910年代の10年間で人口は3倍増、工業都市として高成長を遂げたアクロンは「世界のゴムの都」と呼ばれた。20世紀も後半に入るとタイヤメーカーは買収や移転で次々とアクロンを離れ、グッドイヤーを残すのみとなったが、残された研究インフラの存在によって、アクロンはポリマー産業の中心地へと変貌を遂げてきている。

産業面以外でも、アクロンは革新的な出来事が多く起きた街であった。1847年には、今日全米で標準となっているK-12の学年制教育の先駆けとなったアクロン学校法が成立した。南北戦争前夜には、ジョン・ブラウンがアクロンを事業活動の拠点とし、元奴隷であったソジャーナ・トゥルースが奴隷制度廃止と女性の権利を訴える演説をアクロンで行った。全米で初めて、アルコール依存症が疾患として認められ、治療が行われ、アルコホーリクス・アノニマスが発祥したのもアクロンであった。
歴史
初期アクロンの最初の区画(1825年

1811年、現在のアクロン市ではブフテル・アベニューとブロードウェイ・ストリートの交差点があるあたりに、コネチカット土地会社の測量家ポール・ウィリアムズと、コネチカット西部保留地の将軍サイモン・パーキンスが入植し、当時掘削中であったオハイオ・アンド・エリー運河の最高点であったこの地に入植地の創設を提案した[4]。入植地の名は、ギリシア語で「頂上」もしくは「高いところ」を意味する?κρονから付けられた[5][6]。その後1825年、現在のサウスアクロン地区に相当する地域が区画され、オハイオ運河の掘削に携わったアイルランド系労働者たちの小屋、およそ100棟がその近くに建てられた。その後、1833年にはエリアキム・クロスビーが「ノースアクロン」を創設し、1836年にサウスアクロン・ノースアクロンの2つが合併して、アクロンという1つの村として正式に法人化された[4]

1840年ポーテージメダイナ、およびスターク各郡のそれぞれ一部を分割・再編する形で、サミット郡が創設されると、翌1841年には、サミット郡議会がカヤホガフォールズ郡庁所在地に指定したが、州議会がこれを覆し、郡庁所在地は住民投票に基づいて決めるようにと差し戻した。その結果、郡庁はアクロンに置かれることになった[7]。その頃、アクロンからペンシルベニア州ビーバーへと通ずるペンシルベニア・アンド・オハイオ運河が開通し、b器下水管漁具、農作業道具などの産業が興った[8]1847年には、アクロン学校法が成立し、今日ではアメリカ合衆国全土で用いられている、K-12の学年制による教育の先駆けとなった[9]
南北戦争前夜から「頂点の街」へ

南北戦争前夜のアクロンでは2人の著名な奴隷制度廃止運動家が活躍した。1844年ジョン・ブラウンは、共同事業者であったサイモン・パーキンスの豪邸と道1本を隔てた対面側に自身の家を移し、アクロンを事業活動の拠点とした。1851年には、オハイオ女性の権利大会がアクロンで開催され、ソジャーナ・トゥルースが原稿無しで、後に「私は女ではないの?」と名付けられることになる演説を行った[10]アクロン大学のキャンパス内に立つジョン・R・ブフテルの像

1870年、地元実業家にして博愛主義者であったジョン・R・ブフテルの出資で、アクロン大学の前身となる、ユニバーサリスト教会系のブフテル・カレッジが創立した[11]。また、この頃、ルイス・ミラーとウォルター・ブライスの2人の博愛主義者と建築家ジェイコブ・スナイダーは、アクロン・プランというデザインパターンを確立し、1872年に初めてこの様式を用いてアクロンのファースト・メソジスト監督教会堂を建てた[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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