アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニー
[Wikipedia|▼Menu]

アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニー
???? ????? ????????


イラン・イスラム共和国
第4代 大統領
任期1989年8月3日1997年8月2日
元首アリー・ハーメネイー

出生 (1934-08-25) 1934年8月25日
イラン帝国、ケルマーン州バフラマーン
死去 (2017-01-08) 2017年1月8日(82歳没)
イラン・イスラム共和国テヘラン
署名

アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニー(ペルシア語: ???? ????? ????????‎ Akbar H?shem? Rafsanj?n? [ak?ba? h???e?mi? ?afsand????ni?] ( 音声ファイル)、1934年8月25日 - 2017年1月8日[1])は、イランの政治家。大統領(第4代)などを歴任。日本のマスコミなどでは長音記号を排しハシェミ・ラフサンジャニと表記されることが多い。
経歴
王政時代

イラン南東部のケルマーン州バフラマーン出身[2]。父のミールザー・アリーは、ウラマーであり、イランでも有数の農業主でもあった。

1948年、生家を離れ、シーア派の聖地ゴム市に赴き、ルーホッラー・ホメイニーに師事した。

1950年代初め、ラフサンジャーニーは、 シャー体制との闘争に初めて入った。当時、彼は、国家の独立の強化を主張したモサッデグ博士の熱狂的支持者だった。クーデタによりモサッデグ政権が倒れ、ラフサンジャーニーは当局のブラック・リストに入る。

1960年代、モハンマド・レザー・パフラヴィー体制は、経済状態が悪化し、政治的危機が増大する中、「白色革命」と呼ばれる社会・経済改革の実施に着手した。改革の中にはウラマーの権限を侵すものもあり、ホメイニーはゴムで蜂起したが鎮圧された。蜂起の組織者は国外追放され、ラフサンジャーニーを含むホメイニーの弟子達は投獄された。ラフサンジャーニーはその後もさらに4回逮捕されている。

この時期、19世紀に西洋的近代化を唱えたガージャール朝の政治家アミール・キャビールの思想に共鳴し、彼の伝記を書いている。また、革命までの数年間、欧米や日本を訪問した。広島市平和記念資料館のノートにラフサンジャーニーと思われる記名がある。旅行中、ヤーセル・アラファートとも会見したことが当局に明らかになり、再び投獄された。
イラン・イスラム革命

1979年のイラン・イスラム革命後、ラフサンジャーニーは内務相に任命された。この時期、イスラム革命指導者に対するテロ行為が頻繁に起きたが、彼は空手で暴漢を撃退したという噂が広まり、人気の上昇につながった。一連のテロ事件により当時の大統領アリー・ハーメネイーが負傷し、ラフサンジャーニーは、ハーメネイーのテヘラン金曜礼拝導師の座を占めることとなった。テヘラン金曜礼拝での説教は大統領職にあるものがウラマーである場合、大統領が行うものであり、政府公式声明の意味を持った。このためテヘラン大学で講義され、新聞紙に必ず掲載され、テレビおよびラジオで放送される。特にこの職務によりラフサンジャーニーは、ホメイニーに次ぐ立場を獲得することができた。

1980年、ラフサンジャーニーは、マジュリス(議会)議長の席を占めた。彼は、議会をホメイニーの側近グループに次ぐ権力機関に変え、内閣の組閣と首相の任命の際の決定権を収めることができた。

1988年5月に行われた第3期議会選挙において、ラフサンジャーニーは、議会に支持者を大量に送り込み、立場を強化した。弟のマフムードは外務省近東部長となり、モハンマドは代議員に当選、テレビ・ラジオ放送局長になった。また、従兄弟のホセイン・ハーシェミーは、乾燥果物生産者・輸出業者協会を率いた。さらにもう1人の親戚は、代議員となり、内務省でポストを得た。
イラン・イラク戦争

イラクとの開戦時、ラフサンジャーニーは、国防最高会議におけるホメイニーの私的代理人であり、のちに軍最高司令官となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef