アクセプト_(バンド)
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アクセプト

フィンランド・クオピオ公演(2022年)
基本情報
別名Band X(1968?1976)
出身地 ドイツ
ノルトライン=ヴェストファーレン州ゾーリンゲン
ジャンルジャーマンメタル
ヘヴィメタル[1]
パワーメタル[2]
スピードメタル[1]
ハードロック[1]
活動期間1976年 - 1989年
1992年 - 1997年
2005年
2009年 - 現在
レーベルBrain Records
RCA/BMG Ariola
Epic/ポートレイト・レコード
ニュークリア・ブラスト
公式サイト ⇒acceptworldwide.com

メンバーマーク・トーニロ (Vo)
ウルフ・ホフマン (G)
ウヴェ・ルイス (G)
フィリップ・ショウズ (G)
マルティン・モイック (B)
クリストファー・ウィリアムズ (Ds)

旧メンバーウド・ダークシュナイダー (Vo)
ピーター・バルテス (B)
ステファン・カウフマン (Ds)
ほか 別記参照

アクセプト(ACCEPT)は、ドイツ出身のヘヴィメタルバンド

1976年、ウド・ダークシュナイダーを中心に結成。同国の「スコーピオンズ」に続く、元祖ジャーマンメタルの地位を確立したバンドとして知られる[2]
経歴創設者ウド・ダークシュナイダー (Vo)
結成からデビューまで(1968年 - 1980年)

非常に個性的な声と風貌で有名なヴォーカリスト ウド・ダークシュナイダーが、1968年に旧西ドイツ・ゾーリンゲンで結成したロック・バンド「Band X」が前身(一時期、後にプロデューサーとして名を上げるマイケル・ワグナーが在籍していた。)。そして1976年にウルフ・ホフマン、ピーター・バルテスらと組んでバンドを再編し、現行の「アクセプト」に改名した。

その後も変遷を経て、ウド(ボーカル)、ホフマン(ギター)、ヨルグ・フィッシャー(ギター)、バルテス(ベース)、ステファン・カウフマン(ドラムス)のラインナップが完成し、1979年セルフタイトルの1stアルバム『Accept(邦題:アクセプト?殺戮のチェーンソー)』でデビューを果たす。

デビュー・アルバムはいかにも欧州的な叙情派バラードや、後のスピード・メタル路線につながるパワフルな曲などが収録されていたが、1980年に発表した2枚目のアルバム『アイム・ア・レベル』では自分たちの意志ではなかったというアメリカン・ロックを強要され、メンバー達にとっては不本意な作品となった。また、この時期はまだ商業的な成功にはほど遠かった。
バンドの地位確立(1981年 - 1985年)

1981年、3枚目のアルバム『Breaker(邦題:ブレイカー?戦慄の掟)』発表時、英国ではNWOBHMのムーブメントが起こっており、それに呼応する形で彼らの存在が認められていった。このころからマネージメントを引き受けるようになったマネージャーのギャビー・ホーク(現在はホフマンの妻でもある)の活躍もあり、バンドはジューダス・プリーストの前座としてワールド・ツアーを行い、ヨーロッパのみならずアメリカでも高い評価を得る。

1982年、フィッシャーの脱退後、ヤン・コウメット?ハーマン・フランクの加入を経て、アルバム『レストレス・アンド・ワイルド』を発表。

1984年、フランクが脱退したのちフィッシャーが再度加入。アルバム『ボールズ・トゥ・ザ・ウォール』を発表し、彼らのスピードメタルヘヴィメタルバンドとしての地位が確立される。『ボールズ・トゥ・ザ・ウォール』は商業的にも成功を収め、母国ドイツのアルバム・チャートに初登場を果たして59位を記録[3]。さらにアメリカでも自身初のBillboard 200入りを果たし、74位を記録する[4]。そして、ジューダス・プリースト等と共に、英国ドニントンパークで開催された第5回モンスターズ・オブ・ロックに出演した。

1985年にはアルバム『メタル・ハート』を発表。このアルバムはドイツのアルバム・チャートで13位に達して初のトップ50入りを果たし[5]、スウェーデンでは最高4位という大ヒットを記録した[6]。このアルバム発売の直後に初の日本公演を行う。この模様は当初、愛知県勤労会館での公演を収録した6曲入りのライヴ・アルバム『ライヴ・イン・ジャパン』として発売され[7]好セールスを記録した。1990年には、1985年に行った大阪公演でのライヴ・アルバムが『ステイング・ア・ライフ』としてリリースされた(ビデオも存在するが、映像は日本公演のものではない)。収録曲の"Princess of the Dawn"では、観客の大合唱にダークシュナイダーが驚いている様子までが収録されている。
ウドの離脱から解散まで(1986年 - 1989年)U.D.O. - ウド(中)&カウフマン(右) 2004年

1986年、アルバム『ロシアン・ルーレット』を発表するが、その直後にウドが脱退し(本人は後のインタビューで「解雇」だったと語っている[8])、自己のバンドU.D.O.を結成。なお、U.D.O.の1stアルバム『アニマル・ハウス』の収録曲は本来アクセプト用に作られていたが、バンド側がよりアメリカ向けの路線に変更することを決断したため、ウドが自分のアルバム用に収録した経緯があり[8]、そのうちLay Down the Lawはアクセプトのメンバーが演奏にも参加している[9]

ウドの脱退後は、マイケル・ホワイトに続きロブ・アーミテージが後任として加入するが、アメリカ人のデヴィッド・リースに決定される。またフィッシャーも再度脱退したためギタリストにイギリス人のジム・ステイシーを加入させ、1989年にアルバム『イート・ザ・ヒート』を発表。しかし、この頃カウフマンが激しいドラミングと長年のツアーから背骨の異常をきたし活動不能になる。後任のドラマーにはケン・メアリーが加入するも、ホフマンはバンドの解散を決意。その後、ホフマンは写真家に転向し、リースはバンガロー・クワイア(Bangarole Choir)を結成、カウフマンはU.D.O.やOutrageといったバンドの作品のプロデューサーに、バルテスはドン・ドッケンのバンドに招かれ、それぞれ活動する。
リユニオン期(1992年 - 2005年)再結成 - ウド(Vo)在籍時代 (2005年)

バンド解散後に発表されたライヴ・アルバム『ステイング・ア・ライフ』の好評を受け、1992年にウドを含むラインナップでの再結成が決定した[10]1993年のアルバム『オブジェクション・オーヴァールールド』は歓迎をもって迎えられ、スピードにこだわったこのアルバムは欧州・米国での好セールスを記録する。しかしスタジオではともかく、ライヴでも2人目のギタリストを加入させず、彼らの特徴でもあったツイン・ギターが再現されなかった。ウドはそれに不満を持ち、2013年のインタビューにおいて当時のことを「俺にとって、アクセプトのサウンドは常に2人のギタリストがいることが前提だったから、既に新しい問題が起こっていた」と振り返っている[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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