アクスム
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アクスム
エチオピア

巨石柱ステッレの屹立
英名Aksum
仏名Axoum
登録区分文化遺産
登録基準(1), (4)
登録年1980年
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図

使用方法表示
シオンのマリア教会

アクスム(アムハラ語:????、: Axum、: Axoum、: Aksum)は、エチオピア北部の街。アドワ山地の麓に近いティグレ州メハケレグナウ圏 (英: Mehakelegnaw Zone) にある。

かつてのアクスム王国の中心地である。この王国はイエス誕生の頃に勃興(ぼっこう)し、在りし日のペルシャ帝国に対抗する東ローマ帝国の半同盟国として、海上貿易で栄えたキリスト教国であった。

しかし7世紀に没落し、原因は不明だが、もっぱら岸伝いの近海を進んだ貿易船の航行がイスラームの台頭により妨げられたため、アレクサンドリアコンスタンティノポリスなど主要市場との関係が絶たれて衰退につながったと推測されている。王国の競争力が衰えるとアスクムの地位も落ち、エチオピア帝国の中心地は内陸部にシフトした[1]

2015年の人口は6万6800人[2]。75%がエチオピア正教徒で、残りはスンニ派ムスリムや非正教系のキリスト教徒である。Dungur

1980年にユネスコ世界遺産に登録された。
調査

イギリスの探検家セオドア・ベント(英語版)とメイベル・ベント夫妻は1893年2月、船で紅海西岸のメッサワ(英語版)に入り、陸路でアクスムとイエハ(英語版)の発掘に臨んだ。域内の交易史初期に、紅海の東西で交易が行われた証左を求めた調査である[注釈 1]。アクスム到着は同月24日頃[4]だったが、イタリアの植民者と現地の戦闘集団との緊張が高まったため調査は取りやめ[注釈 2]第一次エチオピア戦争の成り行きを見守るほかなかった。3月末には急きょ撤収を決め、ズラ経由でイギリスへ帰国、調査行を上梓している[6][注釈 3]
気候

ケッペンの気候区分温暖冬季少雨高地気候 (Cwb) に属する[10]

アクスムの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)25.9
(78.6)27.2
(81)28.6
(83.5)29.4
(84.9)28.8
(83.8)27.0
(80.6)22.5
(72.5)22.3
(72.1)24.8
(76.6)26.3
(79.3)26.8
(80.2)25.7
(78.3)26.28
(79.28)
日平均気温 °C (°F)16.7
(62.1)17.8
(64)17.7
(63.9)21.0
(69.8)20.8
(69.4)19.7
(67.5)17.2
(63)17.4
(63.3)17.9
(64.2)17.9
(64.2)17.4
(63.3)16.2
(61.2)18.14
(64.66)
平均最低気温 °C (°F)7.5
(45.5)8.4
(47.1)10.8
(51.4)12.7
(54.9)12.9
(55.2)12.4
(54.3)12.0
(53.6)12.6
(54.7)11.1
(52)9.6
(49.3)8.0
(46.4)6.7
(44.1)10.39
(50.71)
降水量 mm (inch)3
(0.12)2
(0.08)9
(0.35)27
(1.06)31
(1.22)67
(2.64)221
(8.7)199
(7.83)67
(2.64)12
(0.47)13
(0.51)1
(0.04)652
(25.66)
出典:Climate-Data.org(海抜:2133m[10]

人口

1984年5月9日:1万7753人

1994年10月11日:2万7148人

2007年5月28日:4万4647人

2015年7月1日:6万6800人

歴史

アクスム王国はゲエズ語と呼ばれる固有の文字言語を持ち独自の建築様式を発達させており、それを代表する巨大なオベリスクの最初期の例は紀元前5000年から前2000年まで遡る[11]。この王国はエザナ王の時に最盛期を迎えた。公式にキリスト教に改宗したのもこの時期で、エザナ王にも「アブレハ」という洗礼名がある[12]。初期の伝道を行った人物としてエチオピアの大主教フルメンティがいる。

エチオピア正教会はシオンのマリア教会(英語版)の小礼拝堂にかつて契約の聖櫃があり、モーセの十戒を刻んだ石版を納めていたと主張している。この教会はファシリデス(英語版)帝の治世まで数世紀にわたり代々のエチオピア皇帝が来拝し、中断の時期をはさんでヨハンネス4世から帝政の終焉まで再び歴代皇帝が通っていた。アクスムはエチオピア最高の聖地であり、重要な巡礼地とされる[13]

重要な祭事であるティムケット祭(T'imk'et Festival, 正教会でいう神現祭、西洋世界でいう公現祭)は例年1月19日に行われ、11月下旬にマリヤム・シオン祭(シオンのマリア祭)を祝う。

1937年に1700年前のオベリスク(全高24m)をイタリア軍が3分割し、ローマに持ち帰った。このオベリスクがアクスム王国最盛期の技術の最良の例証の一つであることは衆目の一致するところであり、1947年に国連はオベリスクがエチオピアに返還されるべきであると決議した。しかしイタリアは承諾せず、両国政府の長い外交交渉の末に、2005年に返還された[要出典]。
遺跡
ステッレステッレ

アクスムで特徴的な遺構はステッレと呼ばれる1700年ほど前のオベリスクで、エチオピアの人々にとって愛する祖国の象徴である[14]。いちばん多く残る北ステッレ公園(: Northern Stelae Park)に立つエザナ王のステッレ(英語版)は全高24 m、長さでは33 mの大ステッレ(英語)が1番目ではあるものの、後者は建設中に倒れて壊れたと伝わるとおり地面に横たわっている[15]イタリア軍駐留時代の1937年に国外に持ち出されたアクスムのオベリスク(英語版)は、エチオピアが国際連合を介して交渉を続けて2005年に戻されると、再建工事を施され2008年7月31日に完成した[14]。2番目に高いエザナ王のステッレ(英語版)についでさらに3基が立つ[16]。ステッレとは墓標だったようであり側面に建物を思わせる窓型を彫り込み、また痕跡から鋳金の円盤を取り付け、そこにも建築的な要素の彫刻があったと考えられる。

北のステッレ群に対して、市街地の西にたたずむ女王ガディット(英語版)のステッレ群では、そこかしこにある墓は4世紀に作られた。

北ステッレ公園の巨石柱(アクスム)名称高さ(m)幅(m)奥行き(m)重量(t)備考
大ステッレ333.842.35520
アクスムのオベリスク24.62.321.36170
エザナ王のステッレ20.62.651.18160前面の基壇上面からの高さ
18.21.560.7656
15.82.351.075
15.31.470.7843



他の史跡モーゼの石版を納めてあったという小礼拝堂(シオンのマリア教会の礼拝堂)

アクスムのその他の見どころに皇帝ファシリデス(英語)の時代のシオンのマリア教会(英語)(1665年献堂)があリ、創建時はエザナ王の時代にさかのぼる。


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