アキテーヌ公国
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1154年のフランスの地図アキテーヌ公の紋章

アキテーヌ公(フランス語: duc d’Aquitaine)は、フランスアキテーヌ地方の君主。首城はボルドーのトロンペット城だった。アキテーヌ公の所領を表す語として、アキテーヌ、ギュイエンヌガスコーニュの語が使われるが、この3つは厳密な使い分けが必ずしもなされていない。ギュイエンヌはアキテーヌのうちポワトゥーを除く北西部を、ガスコーニュは南西部を示すことが多い[1]
歴史
成立

アキテーヌ地方は6世紀初頭までは西ゴート王国の領土であったが、507年のヴイエの戦いにおいてクローヴィス1世がピレネーまでの領域を征服し、フランク王国の領土となった。クロヴィス1世の死後、その王領は諸子に分割相続され、王家で継承された。しかし、カリベルト2世の死以後、現地の公に率いられた独立の勢力がたびたびフランク王権と対立した。8世紀当初にはボルドーの伯ウードがフランク王国から独立した支配を固めていた。

ところが、729年にイベリア半島からアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー(英語版)率いるウマイヤ朝の軍勢がアキテーヌに侵入し、ウードはイスラム軍に敗れた。そこで、ウードはカール・マルテルに援軍を求め、732年トゥール・ポワティエ間の戦いにおいてカール・マルテルはイスラム軍を破った。760年、フランク王ピピン3世は、アキテーヌ公ワイファリに対し、彼が不法に略取している教会領の返還を命じたが、ワイファリは逆にオータン、シャロン、トゥールなどの地方にまで侵略してきた。

結局、ワイファリは768年に部下により暗殺され、アキテーヌ公による抵抗は一旦終結した[2]。翌769年には、ワイファリの息子で跡を継いだウナール2世が再び叛乱を起こし、カール1世は弟カールマンとともにこれを鎮圧した[3]778年、カール1世はヒスパニアに遠征したが失敗に終わった。そこで、ヒスパニアと接する地域であり、これまで王権と対立してきたアキテーヌを確実に掌握するために、生まれたばかりの王子ルートヴィヒ(後のルートヴィヒ1世)を王とするアキテーヌ王国を創設する一方、アキテーヌ地方の9人の伯を全員フランク人から選んで、多くの修道士とともに送り込んだ[4][5]

アキテーヌ王国はその後ルートヴィヒ1世の息子ピピン1世、さらにその息子ピピン2世に継承され、ピピン2世の後は西フランク王家がその所領を相続し、西フランク王国の一部となった。アキテーヌ公位については、9世紀後半から10世紀後半にかけて、ポワトゥー伯家オーヴェルニュ伯家トゥールーズ伯家の間で争われたが、10世紀後半にポワトゥー伯ギヨーム3世がアキテーヌ公となって以降は、ポワトゥー伯家が12世紀まで公位を継承した[6]。11世紀半ばにはポワトゥー伯家はガスコーニュ公領も継承し[6]、当時のアキテーヌ公の権力はロワールからピレネーの山麓まで、そしてオーヴェルニュの中央山岳地帯から大西洋にまで広がっており、フランス王の領地よりはるかに広大で豊かであった[7]
イングランド王家による領有

ギヨーム10世は男子の継承者なく1137年に死去し、2人の娘が残された。姉のアリエノールは同年7月25日、フランス王太子ルイ(後のフランス王ルイ7世)と結婚し、夫妻はアキテーヌ公兼ポワトゥー伯となった(妹のペトロニーユはヴェルマンドワ伯ラウル1世と結婚したが離婚)。しかし、この結婚は1152年3月21日に2人の血縁関係を理由として破棄された[8]。そしてアリエノールは同年5月18日、アンジュー伯アンリと結婚し、アキテーヌ公位はフランス王ルイ7世からアンリに移った。1154年、アンリはイングランド王として即位(ヘンリー2世)し、以後、アキテーヌ公領はイングランド王もしくはその王子たちが領有したが、イングランド王側はアキテーヌ公領などの大陸の所領についてフランス王に臣従礼を行うことが課せられた。

しかし、この後、リュジニャン家をはじめとする在地領主によるイングランド王に対する反乱がしばしば起こり、中にはフランス王フィリップ2世に対し臣従礼を行う領主もいた[9]。その後、カスティーリャ王アルフォンソ8世によるガスコーニュ侵攻や、フランス王によるポワトゥーの都市ラ・ロシェルの奪取(1224年)などが起こり、ヘンリー3世の時代になると、大陸領土の防衛と統治が重要視されるようになり、ヘンリー3世自身もたびたび公領を訪れ、現地領主からの臣従礼を受け、政治的安定性の回復に努めた。

1259年12月4日、フランス王ルイ9世とイングランド王ヘンリー3世の間でパリ条約が合意され、ヘンリー3世はノルマンディーアンジューのほかメーヌトゥーレーヌとポワトゥーに対する権利を放棄する代わりに、アキテーヌ公として公領の一部であるガスコーニュをフランス王ルイ9世から受領することになった。1294年以降、両国は戦争状態に陥ったが、イングランド側はランカスター伯エドマンドを使者として送り、フィリップ3世と和解の道を模索した。しかし結果として、フィリップ3世が和解の条件を拒否し、1294年5月19日にイングランド王家の大陸側の所領の没収を宣言した。同年6月20日からガスコーニュにおいて戦闘が始まったが(ガスコーニュ戦争)、1297年には戦局は膠着状態に陥り、10月9日、休戦協約が成立した。

1298年6月30日には教皇ボニファティウス8世による調停がなされたが、ガスコーニュのイングランドへの返還が合意されたのは、1303年5月20日のパリ条約においてであった。1305年にガスコーニュ出身のボルドー大司教ベルトラン・ド・ゴがフランス王フィリップ4世の支持のもと教皇(クレメンス5世)に選出されたこと、および1308年1月にイングランド王エドワード2世が、フィリップ4世の娘イザベルと結婚し、フィリップ4世に臣従礼を行ったことで、両家の対立は解消されていった[10]。しかし、フランス王シャルル4世の時代になると、エドワード2世は臣従礼をたびたび延期し[11]、また、ガスコーニュの領主がアキテーヌ公たるイングランド王からの処罰を逃れ、身柄の保護を受けるためフランス王へ上訴するケースが増えたことから[12]、両国の関係は悪化し始めた。さらに、当時イングランド王が領有していたアジュネのサン・サルドスにおけるバスティッド建設をめぐる争いの中、1324年6月、フランス王シャルル4世はアキテーヌ公領の没収を宣言した[13]。翌1325年5月から6月にかけ、両家の間で和平が成立し、イングランド王側がシャルル4世に臣従の礼を行うことを条件に公領を返還されることが決まり、同年9月、王太子エドワード(後のエドワード3世)により臣従礼がなされ、11月10日、公領の一部がイングランド側に返還された[14]。しかしフランス軍が占領したアジュネに関しては返還されなかった[14]
百年戦争下のアキテーヌ「百年戦争」および「第一次カスティーリャ継承戦争」も参照

1327年に即位したエドワード3世とヴァロワ家のフランス王フィリップ6世との間には、フランス王位をめぐる継承問題、スコットランドへのフランスの支援、フランスからイングランドへの亡命貴族ロベール・ダルトワに対するイングランドの支援などを巡って対立が生じ、1337年5月24日フランス王フィリップ6世はイングランド王からのアキテーヌ公領没収を宣言した。


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