アカバ
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アメリカの宇宙飛行士については「ジョセフ・アカバ」をご覧ください。

アカバ
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アカバ
座標: 北緯29度31分0秒 東経35度0分0秒 / 北緯29.51667度 東経35.00000度 / 29.51667; 35.00000
ヨルダン
面積
 - 計375km2 (144.8mi2)
人口 (2008年推計)
 - 計95,408人
等時帯 ヨルダン標準時 (UTC+2)
ウェブサイト ⇒www.aqaba.jo

イスラエル領エイラートから見たアカバ。高さ100mを超える旗竿に第一次大戦当時のアラブ反乱旗が翻る アカバの遠景 アカバ要塞 アラビアのロレンス (1917年)

アカバ(العقبة, Al-`Aqabah 英語表記 Aqaba)は、ヨルダン南部の港湾都市。人口62,773人 (1994年)。準内陸国であるヨルダンが唯一海に接する場所であり港湾として、戦略的な要地である。
目次

1 地理

2 気候

3 歴史

4 交通

5 史跡

6 黒バラ

7 姉妹都市

地理

ヨルダンの南端にあり、アカバ湾に面し、紅海を経てインド洋に通じる。サウジアラビアイスラエルエジプトを結ぶ海上交通の要所。海洋貿易の一大拠点。また、温暖な気候で、雨も少ないためリゾート地としても有名。2004年現在は、ヨルダンとイスラエルとの関係改善によるイスラエルからの旅行者も増加している。

西隣にイスラエル領のエイラートがある。
気候

一年を通して温暖。
歴史

古代においては、紀元前4000年頃から人間が居住しており、アジア、アフリカ、ヨーロッパをつなぐ交易の要衝であった。初期の集落は聖書によればエラト (?????? ?Ela?) と呼ばれていた。これはおそらくエドマヤ語の固有名詞で、町はエドマヤ人、のちにはアラブ系のナバテヤ人の交易の中心地であった。

列王記によればイスラエル王国ソロモン王が都市エジオン・ゲベルを築き交易の拠点とした。これはおそらく現在のアカバの付近にあった鉄器時代の都市を指すと推測される。

プトレマイオス朝の時代にはベレニケ、ローマ帝国の時代にはアエラナまたはアイラと称され、重要な軍事拠点の一つであった。その後、東ローマ帝国の領土となったが、7世紀にムハンマドが出てイスラム教を建てると、ほどなくイスラーム勢力の下におかれた。以降ウマイヤ朝アッバース朝ファーティマ朝の統治を経て12世紀には十字軍に占領されたが、1170年サラーフッディーンに奪取された。1250年よりマムルーク朝に支配される。のちオスマン帝国によって約400年間支配された。

第一次世界大戦中の1917年アラブ反乱を起こしオスマン帝国に反旗をひるがえしたメッカシャリーフフサイン・イブン・アリーの勢力がアカバを奪取した。この軍隊を率いたのがフサインの子ファイサル・イブン・フサインと* トーマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)であった。アカバの占領により、ヒジャーズ王国に編入され、エジプトからアラビア半島へ、またトランスヨルダンを経てパレスチナへの輸送路が確保され、イギリス軍を助けた。

1924年ヒジャーズ王国が滅亡したあと、1925年にアカバはイギリスのトランスヨルダン委任統治領に割譲された。

1965年フセイン国王の主導によるサウジアラビアとヨルダンの領土交換によって、アカバの街は広がった。ヨルダンは内陸の砂漠の6000平方キロメートルを割譲し、対してアカバ南部の12キロメートルの海岸線を得た。

1980年代湾岸戦争まで、アカバはヨルダンの隣国イラクにとって主要な輸入港であり、以降もイラクへの国際連合による人道支援物資の陸揚港であり、経済制裁下にあって制限された石油輸出もアカバ港を通じておこなわれたものが大部分である。
交通

アカバ空港

アカバ鉄道 - リン酸塩の貨物輸送のみ。アカバ鉄道の本社がある。

史跡

Ayla

アカバ要塞(Aqaba Fort)

黒バラ

世界でも貴重な黒バラの咲く土地でもある。王家の花として保護されている。
姉妹都市

ヴァルナブルガリア

ウィキメディア・コモンズには、アカバに関連するカテゴリがあります。


更新日時:2018年5月11日(金)08:11
取得日時:2018/12/30 21:14


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