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アレクサンドル・カバネル『ヴィーナスの誕生』(1863年)
アカデミック美術(アカデミックびじゅつ、英: academic art)とは、主に西洋美術における用語あるいは様式である。
具体的には以下のようなものを指す。
フランスの芸術アカデミーの規範に影響された絵画・画家たちを指す。
芸術アカデミーでは新古典主義ならびにロマン主義運動の下で実践され、その2つを統合しようという試みがなされた。それを良く反映しているのが、ウィリアム・アドルフ・ブグロー、マルク=オーレル・ド・フォワ・スゾール=コテ、トマ・クチュール、ハンス・マカルトたちの作品である。この文脈において、アカデミック絵画は「伝統主義」「形式主義」「アール・ポンピエ」、「折衷主義(Eclecticism
なお、絵画以外のアカデミックな芸術(Academic art)についても記す。 最初の美術アカデミーは、1563年ジョルジョ・ヴァザーリがフィレンツェに設立した「アカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ(Accademia delle Arti del Disegno)」(現フィレンツェ美術学校 Accademia di Belle Arti Firenze
概要
美術アカデミーの歴史
それより10年ほど遅れてローマに、画家の守護聖人、聖ルカの名にちなんだ「アカデミア・ディ・サン・ルカ」が設立された。こちらは教育的な機能を果たし、フィレンツェのアカデミアより美学理論を大切に考えていた。
1582年には、アンニーバレ・カラッチが自費でボローニャに「Accademia dei Desiderosi」を開いた(続いて1585年頃には「アカデミア・デリ・インカミナーティ」を設立)。いくつかの点で、伝統的な芸術家の工房に似ていたが、カラッチはその当時に魅力のある言葉だった「アカデミア」という看板が必要だと感じてそう名付けた。
アカデミア・ディ・サン・ルカを手本として、1648年にフランスで「王立絵画彫刻アカデミー」が設立された。後の「芸術アカデミー(Academie des Beaux-Arts)」である。フランスのアカデミーは「arti del disegno」を「beaux arts(ボザール)」と翻案したようで、英語の「fine arts(ファインアート)」は「beaux arts」の直訳である。王立絵画・彫刻アカデミーは、手作業を重視する職人と、「教養科目を修めた紳士である」芸術家とを区別する目的があった。創作におけるこの知的要素の強調は、アカデミック絵画のテーマや様式にかなりの影響を及ぼした。
1661年、フランス国内のあらゆる芸術活動の統制を目論んだルイ14世によって王立絵画・彫刻アカデミーが再編されてから、17世紀の終わりまで、芸術に対する姿勢の優位をめぐって会員の間で論争が起こった。具体的に、この「様式の戦争」はピーテル・パウル・ルーベンスとニコラ・プッサンのどちらをこれからの手本とするか、というものだった。プッサン派(poussinistes)は知性に訴える線(disegno)に重きをおくべし、ルーベンス派(rubenistes)は感情に訴える色(colore)に重きをおくべし、とそれぞれ主張した。
この論争は19世紀初期に、ドミニク・アングルの作品に象徴される新古典主義運動と、ウジェーヌ・ドラクロワの作品に象徴されるロマン主義との間で再燃した。さらに、絵を学ぶのは自然を観察して学ぶべきか、過去の巨匠の絵を見て学ぶべきかという論争も起こった。
フランスのアカデミーを手本とし、その教え方とスタイルを真似たアカデミーがヨーロッパ中に現れた。イングランドではロイヤル・アカデミー・オブ・アーツがそうだった。アカデミーの流行は女性画家たちの絵の勉強を困難にした。19世紀後半まで多くのアカデミーが女性を閉め出していたからである(たとえばロイヤル・アカデミーへの女学生の入学は1861年まで)。20世紀まで、ヌードモデルを使った「ライフ・クラス(Life class)」が女学生に適当かという懸念が一部にはあった。 プッサン派・ルーベンス派論争以来、多くの画家たちがこの2つの様式の間で仕事をした。しかし、19世紀の論争の時は、2つの様式、つまり新古典主義とロマン主義を統合しようという試みがなされた。それを成し遂げた画家として評論家たちが名前を挙げた中には、テオドール・シャセリオー、アリ・シェフェール、フランチェスコ・アイエツ、アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン、トマ・クチュールらがいる[要出典]。後期のアカデミック画家、ウィリアム・アドルフ・ブグローは、良い画家である秘訣は「色と線を同じものとして見ること」とコメントした[要出典]。トマ・クチュールは美術技法について書いた本の中でそれと同じ考えを推奨し、こう主張した。この絵は色がより良い、線がより良いと言うのはナンセンスだ。なぜなら色が素晴らしく見えるのは線がそう見せているからで、逆もまたそうである。実際には、色は形の「色価(value)」について語る方法である。 この時代の進展には、もう一つ、絵に描かれた「時代」を示すための様式、つまり「歴史主義」があった。それを良く表しているのがジェームズ・ティソの影響を受けたジャン・オーギュスト・エンドリック・レイスの作品である。さらにNeo-Grec
アカデミック様式の発展
美術界はまた絵画の中の「寓意」に注目しはじめた。線と色の重要性を説くどちらの理論も、画家が寓意を使うことは心理的効果を生む手段を抑制するものの、その中でテーマ・感情・概念が表されるかも知れないと主張した。画家たちは実作の中でそうした理論の統合を試み、寓意的・比喩的な手段として美術作品に特別な注意を払うことを強調した。絵画・彫刻の表現がプラトンの「イデア」を想起させるならば、通常の表現の背後に、抽象的な何か、永遠の真実が垣間見えるはずだと考えた。ジョン・キーツが「美は真実、真実は美」と言ったのはそのためである。絵画は「イデー(idee)」、完全なイデアであるべきと望まれた。ブグローは「ある戦争(a war)」を書くのではなく「戦争(War)」を書きたいと言ったことは有名である。アカデミック画家たちの描いた絵画の多くに「夜明け」「黄昏」「視覚」「味覚」といった寓意的なタイトルがつけられていて、一人の裸体の人物にそれを擬人化し、イデアの本質を明らかにする方法で構成した。
この傾向は写実主義とは反対の観念論に向かうもので、描かれる人物像はより簡潔に、より抽象的になっていった(つまり観念化)。これは自然に見える形を普遍化し、それを作品の全体構成・テーマより下位に置くことを要件とした。
歴史ならびに神話は劇、あるいは概念の弁証法、寓意のための豊かな基盤と見なされ、それらから採られたテーマを使うことは絵画の最も重厚な形だと考えられた。17世紀に始まった「ジャンルのヒエラルキー(英語版)」は、古典的・宗教的・神話的・文学的・寓意的テーマの「歴史画」をその頂点に置き、その下に風俗画、肖像画、静物画、風景画が続いた。