アオスタ公
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サヴォイア家の紋章

サヴォイア家(: Casa Savoia)は、かつてイタリアピエモンテフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォワ一帯を支配していた辺境伯貴族であった家系。1713年スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年ハプスブルク家シチリア島サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王国の王家となった。フランス語名からサヴォワ家(Maison de Savoie サヴワ)と呼ばれることもある。


目次

1 概要

2 サヴォイア家の君主

2.1 イタリア・フランス・その他西欧

2.2 バルカン

2.3 その他


3 系図

3.1 サヴォイア伯

3.2 サヴォイア公、サルデーニャ王

3.3 イタリア王家


4 関連項目


概要

サヴォイア伯ウンベルト1世から始まるサヴォイア本家の他、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世の弟トンマーゾ・フランチェスコを祖とするサヴォイア=カリニャーノ家などが分家として成立した。 1831年にサヴォイア本家の男系子孫が途絶えるとサヴォイア=カリニャーノ家が全ての爵位を継承、勢力を発展させてイタリア王国を成立させた。王家となって以後のサヴォイア=カリニャーノ家の分家には、初代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の弟フェルディナンドを始祖とするサヴォイア=ジェノヴァ家、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の次男でスペイン王位にも就いたアオスタ公アメデーオに始まるサヴォイア=アオスタ家がある。

第二次世界大戦後の1946年6月、王制の是非を問う国民投票により王制廃止が決定してイタリアが共和制となると、一族は国外退去を余儀なくされた。帰国さえもイタリア憲法により2002年まで禁じられていた。

2012年時点で、ウンベルト2世の子たち(長男ヴィットーリオ・エマヌエーレ、旧ユーゴスラビア王族と結婚した長女マリーア・ピア、次女マリーア・ガブリエラ、三女マリーア・ベアトリーチェ)などがいた。

サヴォイア家は欧州でも屈指の名家であり、権威ある貴族の一族だった。家祖ウンベルト1世ビアンカマーノラテン民族ケルト民族からなる北イタリアの血筋に加え、オック人やサクソン人の大貴族とも縁戚にあった。特に後者に関してはフランク族カール大帝に敗れた英雄ヴィドゥキントの血も引いていると言われ、ザクセン朝からの庇護を受けるきっかけともなった。

13世紀イングランドヘンリー3世は、王妃エリナー・オブ・プロヴァンスの母方の縁戚であるサヴォイア伯トンマーゾ1世の息子たちを重用し、彼らにリッチモンド伯の爵位やカンタベリー大司教の位を与えている。サヴォイ宮殿はリッチモンド伯ピーター(のちのサヴォイア伯ピエトロ2世)によって建てられた。
サヴォイア家の君主
イタリア・フランス・その他西欧

サヴォイア伯

ウンベルト1世ビアンカマーノ

アメデーオ1世コーダ

オッドーネ

ピエトロ1世

アメデーオ2世

ウンベルト2世

アメデーオ3世

ウンベルト3世

トンマーゾ1世

アメデーオ4世

ボニファーチョ

トンマーゾ2世

ピエトロ2世

フィリッポ1世

アメデーオ5世

エドアルド

アイモーネ

アメデーオ6世

アメデーオ7世

アメデーオ8世


サヴォイア公

アメデーオ8世

ルドヴィーコ

アメデーオ9世

フィリベルト1世

カルロ1世

カルロ・ジョヴァンニ・アメデーオ(カルロ2世)

フィリッポ2世

フィリベルト2世

カルロ3世

エマヌエーレ・フィリベルト

カルロ・エマヌエーレ1世

ヴィットーリオ・アメデーオ1世


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