アエティウス
[Wikipedia|▼Menu]
アエティウス

フラウィウス・アエティウス(ラテン語: Flavius Aetius, 391年頃 - 454年9月21日)は、西ローマ帝国の将軍。

幼少期はフン族の人質として過ごし、アッティラとも親交があったといわれる[1]425年ガリアでの軍指揮権を獲得すると蛮族との戦いで徐々に頭角を現して西ローマ帝国の実権を握るようになり、434年にはパトリキの称号と西ローマ帝国全軍司令官の地位を得た。451年カタラウヌムの戦いにおいてアッティラ率いるフン族を撃退した。454年、アエティウスの功績に危機感を持った皇帝ウァレンティニアヌス3世によって暗殺された。翌年、皇帝自身もアエティウスの元部下によって暗殺されている。

彼のライバルだったボニファティウス (en) とともに、アエティウスは「最後のローマ人 (en) 」としばしば呼ばれている[2]。歴史家エドワード・ギボンはカタラウヌムでの勝利をもって「蛮族にとっての恐怖でありローマにとっての守護者として称えられた男」と評した。
生涯
家族

アエティウスは391年頃にモエシア属州のドゥロストルム(現在のブルガリアシリストラ (en) )で生まれた。彼の父はスキタイ出身のローマ軍人フラウィウス・ガウデンティウス (en) であり[3][4]、母アウレリア[5]はイタリア系の裕福な貴族階級の女性だった[6]425年以前にアエティウスはカルピリオ(Carpilio)の娘と結婚し[7]、息子をもうけ義父と同じカルピリオと名付けた[8]。後に彼はボニファティウス (en) の未亡人ペラギア(Pelagia)と結婚して息子ガウデンティウス (en) をもうけている。また、アエティウスの横死後に皇帝ウァレンティニアヌス3世へ復讐を行ったトラウスティラ(Thraustila)の妻がアエティウスの娘だった可能性がある[9]。アエティウスの親族と子孫はこれらの記録以外無く、孫以下の世代は確認が取れない。
前半生、ヨハンネス帝臣下時代と最初のガリアでの戦役

少年期のアエティウスは宮廷に仕え、近衛隊(tribuni praetoriani partis militaris)へ入隊した[10]405年から408年の間、彼は西ゴート王アラリック1世の王宮へ人質として送られた。408年、アラリックはアエティウスを再び人質として戻すよう要求したが、アエティウスはフン王の元へ送られることになり、アラリックの要求は拒否されている[11]。ギボンやその他の歴史学者は、西ゴート族やフン族の様な好戦的な部族に教育されたアエティウスは当時のローマに欠けていた軍事的な活力を与えられたと指摘している[12]

423年西ローマ皇帝ホノリウスが崩御した。西方で最も影響力を有していたカスティノス (en) は第一書記[13]ヨハンネス (en) を後継皇帝に選んだ。ヨハンネスは西ローマ帝国の出身者で、西ローマ帝国で疎まれていたテオドシウスの血も引いていなかったので、西ローマ帝国では人気のある皇帝となった。カイサレイアのプロコピオスは彼を「優しさと寛大さと恩恵とを兼ね備えた皇帝」と称賛した。ヨハンネスは伝統に従い東ローマ皇帝へ承認を求める使者を遣わしたが、東ローマ皇帝テオドシウス2世は幼い従弟のウァレンティニアヌス3世(ホノリウスの甥でもある)を西ローマ皇帝に擁立すべく、アスパル率いる遠征軍を組織させた。アエティウスは西ローマ皇帝ヨハンネスに宮殿監督(cura palatii)として仕え、ヨハンネスによってフン族へ助けを求めるべく派遣された。強力な軍隊を持たないヨハンネスは首都ラヴェンナに籠城したが、425年6月または7月に落城して他の大臣たちとともに捕らえられ、殺害された。それから程なくしてフン族の大軍とともにイタリアへ帰還したアエティウスは西方の権力がウァレンティニアヌス帝と母后ガッラ・プラキディアに握られていることを知った。アスパルとの戦闘の後にアエティウスはガッラ・プラキディアとの和解した。彼はフン族を帰還させてガリア軍司令官(comes et magister militum per Gallias)の地位を得た[14]

同年または翌426年、アエティウスはアレラーテ(現在のアルル)を包囲していた西ゴート族を撃破し、アクイタニアへ帰還させた。428年、彼はフランク族を打ち破り、占領されていたライン川沿いの領土の幾分かを回復した[15]429年に彼はマギステル・ミリトゥム(軍司令官)に昇進した。ガッラ・プラキディアの支持者であり当時最も影響力があったパトリキ・フラウィウス・フェリックス (en) (380年生誕。428年のコンスル。父は395年のプロコンスルを務めたエンノディウス(355年 - 395年以降))がマギステル・ミリトゥムの長官であったので、アエティウスは二人の副官のうちの一人であったとされる。だが、430年5月、アエティウスは自分を陥れようとしたとフェリックスを非難して、彼とその妻パドゥシア(383年頃または385年頃生誕)を殺害した。

フェリックスが死ぬと、アエティウスは、パトリキの称号を有してはいなかったが、マギステル・ミリトゥムの中での最有力者となった。同年、彼はラエティアでユートゥンゲン族 (en) を破り、アレラーテ近くで西ゴート族を撃破して指導者のアナオルスス(Anaolsus)を捕らえた。431年ノリクムでノリ族(Nori)に勝利した後にガリアへ帰還すると、スエビ族からの攻撃を訴えていたアクアエ・フラウィアエ (en) [16]司教ヒュダティウス (en) を迎え入れた。432年、アエティウスは再びフランク族を打ち負かして彼らとの和平を成立させると、ヒュダティウスをイベリアへ送り帰した[17]
ボニファティウスとの対立

ローマを守るためにガリアで戦っている間、アエティウスは宮廷の権力者との闘争と云うもう一つの舞台でも戦っていた。425年以降、アエティウスはフラウィウス・フェリックス指揮下の二人の有力将軍の一人であり、もう一人はボニファティウス (en) だった。二人の対立は年々高まっていった。ボニファティウスはアフリカ伯(コメス (en) )としてアフリカ管区 (en) を統治していたが、背反の噂が流れて母后ガッラ・プラキディアの猜疑を受け召還命令を受けた。これはアエティウスの策謀によるものであったとされる。ボニファティウスはこれに応じず427年にアフリカで反乱を起こした。ボニファティウスはイベリア半島のヴァンダル族に兵力提供を要請したが、ヴァンダル族は部族を挙げてジブラルタル海峡を渡った。これに脅威を感じたボニファティウスはヴァンダル族を討伐しようとするが苦戦する。430年にボニファティウスは母后プラキディアと和解し、アフリカを捨ててイタリアへ帰還した[要出典]

430年5月にフェリックスが死去すると権力闘争はアエティウスとボニファティウスの二人の主役に絞られた。432年、アエティウスは執政官となり、母后プラキディアによってイタリアへ召還されたボニファティウスは(おそらくはガリア軍司令官のアエティウスとの対抗勢力として)パトリキの地位を与えられた。プラキディアが自分を排除しようとしていると信じたアエティウスはボニファティウスを攻撃すべく進軍してリミニで会戦した。ボニファティウスが勝利したが、彼は重傷を負い数ヵ月後に死去した。

セバスティアヌス (en) が後継者となりマギステル・ミリトゥムの称号を引き継いだ。アエティウスは私有地に退いたがセバスティアヌスによって暗殺が企てられたため、ローマへ逃れ、次いでダルマチアパンノニアを経て彼の友人であるフン族の元へ逃れた。

433年、アエティウスはフン王ルーアと軍事力提供の見返りにパンノニアの支配を認める取引を行い[18]、フン族の助けを受けてアエティウスはイタリアへ帰還した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef