この項目では、日本のグループ・サウンズのバンドについて説明しています。
アメリカのヒップホップグループについては「アウトキャスト」をご覧ください。
2016年に始まったアメリカのテレビドラマについては「アウトキャスト (テレビドラマ)」をご覧ください。
アウト・キャスト
出身地 日本
ジャンルグループ・サウンズ
活動期間1966年 - 1969年
事務所渡辺プロダクション
メンバー大野良二(ベースギター)
岡本修(リードボーカル)
谷かつみ
アウト・キャストは、1966年春に結成されたグループ・サウンズ(GS)のバンド。所属は渡辺プロダクション。グループ名の由来は[1]「人真似ではなく、自分達独自のもので飛躍しよう」との想いから。 1968年4月の再デビュー時以降のメンバー。大野プロへ移籍、前期メンバーだった水谷、轟は「アダムス」へ。
メンバー
前期
水谷淳(リードギター、ボーカル)1948年6月17日生まれ。もと津田竜一とブルーエース、のちアダムスを経て、スタジオミュージシャン、作曲家の水谷公生
轟健二(リードボーカル、フルート)1948年3月21日生まれ。のちアダムスを経て音楽プロデューサーの松崎澄夫(元アミューズ代表取締役、現BOGUS RECORDS共同代表)
大野良二(ベースギター)1948年2月12日生まれ。もとテディーボーイズ[注 1]
中沢啓光(ドラムス)1948年3月19日生まれ。のち邦楽師、音楽講師の西川啓光、1970年村岡実とニューディメンショングループにゲスト参加[注 2]
前期脱退メンバー
片桐周一(ギター)初代ギター。短期間の在籍で、デビュー前に脱退
藤田浩一(ギター)片桐脱退後に加入。後に作詞家、作曲家、音楽プロデューサー、トライアングルプロダクション社長。2009年10月11日没
穂口雄右(オルガン)1948年1月24日生まれ。もとテディーボーイズ、もとジャニーズ・ジュニア、のち津々美洋とオールスターズ・ワゴン、スタジオミュージシャン、後に作曲家、アムバックス音楽出版社長
後期
大野良二、または大野良治(ベースギター)後に雄ちゃん・英ちゃんと良ちゃん
岡本修(リードボーカル)
谷かつみ(ギター)後にジャニーズ事務所へ移籍。トニー谷の次男。本名・大谷克己。
菅野吉治(オルガン)
朝倉幸夫(ドラムス)
なお、プロフィールは現役当時のもの。 1960年代前半に活動していたインストロメンタルエレキバンドの「津田竜一とブルーエース[2]に在籍していた水谷(当時は水谷竜緒)とそれに大野が中心となって結成された。 渡辺プロダクション(以下「渡辺プロ」と略)所属ジャズピアニスト津田竜一[3]とそのグループブルーエースでは2枚のエレキインストロメンタル・アルバムを発表し、ジャズ喫茶などでは同じ所属でソロ歌手の布施明、望月浩らをゲストに、またスタジオ録音やテレビ出演のバックバンドとして活動していた。ここにスカウトされ先に加入していた水谷に勧誘され轟(水谷の中学時代からのバンド仲間)がゲスト歌手の一人に加わった。渡辺プロではかつてのロカビリー・ブームから直近のビートルズ人気状況を見て新しいスタイルのバンド、歌手が常駐するエレキバンドの所属追加を構想し、募集は新規結成でブルーエースの水谷と共同[4]で進めソロ歌手契約だった轟に渡辺プロで他バンドに参加していた大野[5]、次にスカウト、オーディションを重ね藤田の参加で陣容が揃い1966年6月渡辺プロ初のグループサウンズのバンド[6]として1967年にレコードデビューした[7]。 1967年夏に藤田(のち「ザ・ラヴ"
沿革
水谷を中心にスカウト、オーディションで集合した為に団結力が弱くまとめ役(バンド・マスター)は大野が務める一方オリジナル楽曲を創るメンバー重複による齟齬、プロダクションの意向で活動は短命に終わってしまった。アルバム(LPレコード)を発表したグループサウンズのバンドでは異例だった[8]。後年にスタジオミュージシャンや音楽プロデューサー、作家となるメンバーも多く、実力はあったが人気に恵まれないグループサウンズの代表格とも言われており、当時は評価されなかった。後年になり海外のレコード・コレクターから「電話でいいから」や、アルバム収録の「のっぽのサリー」が“日本最古のガレージパンク”と再評価され、未発表曲などまでCDによる再編集版に収録されるに至っている。
近年行われた水谷へのインタヴュー[9]から、ザ・タイガースのアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」[10]へ録音サポートしたことが明らかになった[11]。
同時代の渡辺プロダクション所属アーティストでソロ歌手のステージ伴奏や収録ではスタジオミュージシャンを務め、小畑ミキなどの録音に参加している。アウトキャスト解散後はザ・ハプニングス・フォーなどが務めた。
最近(2016年6月現在)は、かつてグループサウンズで活躍したミュージシャンがテレビ番組などで同窓会的な「復活」を果たすなかアルタミラミュージック後援「GS生誕50周年記念イベント“ GSフェスティバル 2016 前夜祭 ”」[12]は大野が様々なバンドをサポートしその一つでアウト・キャストは轟、西川(中沢)ら三名で「復活」を果たしている。
バンドボーイには「なぜか埼玉」を歌ったさいたまんぞうが1967年頃に、その後前述の「雄ちゃん・英ちゃんと良ちゃん」の一員となった泰英二郎(現猫夜叉の横山エントツ)が務めていた。 ※1洋楽カバー曲英語詩。I LOVE YOUの原曲はゾンビーズでザ・カーナビーツが邦題好きさ好きさ好きさと日本語詞で発表している。※2藤田浩一脱退でシングル盤とはミキシングが異なる。
ディスコグラフィー
シングル
友達になろう/気ままなシェリー(1967年1月25日)※作詞・曲は藤田浩一、轟藤田によるボーカルでアルバムとはミキシングが異なる。
愛することは誰でもできる/電話でいいから(1967年4月)
レッツ・ゴー・オン・ビーチ/エンピツが一本(1967年7月10日)
一日だけの恋/僕のそばから(1967年10月15日)
愛なき夜明け/ふたりの秘密(1968年1月10日)
空に書いたラブレター/君を慕いて(1968年6月5日)※新生アウト・キャスト、A面はサイモン・デュプリー&ザ・ビッグ・サウンド(en) のちジェントル・ジャイアントカバー曲。
アルバム
君も僕も友達になろう(1967年11月10日) 一日だけの恋/エンピツが一本/I LOVE YOU※1/愛することは誰でもできる/のっぽのサリー※1/ふたりの秘密/レッツ・ゴー・オン・ザ・ビーチ/友達になろう※2/ビー・マイ・ベイビー※1/君と歩こう/エブリシングス・オール・ライト※1/僕のそばから
映画
クレージーの怪盗ジバコ(1967年10月28日、東宝。「一日だけの恋」のインストゥルメンタル(歌なし版)を演奏)
関連項目
グループ・サウンズ
脚注[脚注の使い方]
注釈^ メンバーには大野の他に寺尾聡、穂口雄右が在籍したアマチュア・バンド。
^ 1990年から現名に。グループ離脱後は、 歌舞伎長唄囃子一門に師事、堅田啓光・堅田啓輝・望月啓光など名義で邦楽打楽器奏者、研究家として活動、歌舞伎公演、古典邦楽保存録音に、平行活動で村岡実とニューディメンショングループに帯同、ロック音楽で和太鼓を伴うセッション、和太鼓演奏の入門書など出版に携わった。
出典^ 近代映画 1967年12月号 近代映画社 131頁。
^ のちザ・ジャガーズに参加する森田巳木夫も在籍。
^ (現「津田龍一」) ⇒[1]
^ 寺内タケシの勧誘や助言がきっかけとする異説がある。渡辺プロを退社した1966年寺内タケシとバニーズを結成、寺内は水谷のギター師匠の一人。
^ 渡辺プロ所属時代の寺内タケシとブルージーンズサポート・メンバーか門下兄弟バンド・メンバーとされる。
^ 1963年から在籍の寺内タケシとブルージーンズをエレキ・インストロメンタル・バンドと見なした場合。もとブルージーンズの加瀬邦彦は短期間ホリプロに、1966年7月渡辺プロへ移籍しザ・ワイルドワンズを結成」した。
^ Musicman's RELAY第141回松崎澄夫氏(音楽プロデューサー)インタビュー p2“アーカイブされたコピー
^ 水谷の前歴も渡辺プロ所属でアウトキャストはビートルズ・ブームなどを見てグループサウンズ・ブームの萌芽期にプロダクションが主導した結成だった。ザ・タイガースの存在が1968年3月解散の原因とする意見も有るが悪化したメンバー関係にプロダクションが引導を渡す結果となった(「水谷公生の音魂日記・僕の音楽人生その5」 ⇒[2]「プロダクションから解散して違うグループを作りなさいと言う、半ば強制的な指令が下った。」)。
^ 「エレキ・ギター・ブック7」P.27「グループサウンズの草創期を駆け抜けたギタリストたちPART-2、水谷公生」シンコー・ミュージック、平成13年5月刊
^ 発売はアウトキャスト脱退後の1968年11月25日
^ ザ・タイガースが多忙を極めスタジオ収録作業に不慣れだったことにある。映画「ザ・タイガース 華やかなる招待」で聞ける演奏はレコードとの乖離があり水谷らは、収録サポートと同時にステージに向けて演奏の手ほどき指導も務めていたと思われる。
^ 渋谷区神宮前のクロコダイルにて2016年6月21日開催。
リンク
Musicman's RELAY第141回松崎澄夫氏(音楽プロデューサー)インタビュー[3]
ピアノバーリヨン ⇒[4]・津田龍一プロフィール ⇒[5]
参考文献
黒沢進「『熱狂! GS(グループサウンズ)図鑑』:「アウト・キャスト」」、徳間書店、1986年。
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