アウトバーン
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この項目では、ドイツを中心とする高速道路網について説明しています。

オーストリアのアウトバーンについては「オーストリアの高速道路」をご覧ください。

スイスのアウトバーンについては「スイスの高速道路」をご覧ください。

その他については「アウトバーン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

アウトバーンを表す標識

アウトバーン(ドイツ語: Autobahn)は、ドイツオーストリアスイスの自動車高速道路

本項では、特に記述のない限り、主にドイツのアウトバーンについて記述する。速度無制限道路として有名であるが、無制限区域は全区域ではなく、制限のある区域も存在する(後述)。アウトバーンの路線図

「アウトバーン」を逐語訳すると「自動車の走る道」である。「アウト」は(英語の「オート」に相当する)自動車を意味し、「バーン」は人や馬も歩くような道ではない「専用路」といったニュアンスを持つ[1]

ドイツの道路交通法 (StVO) では、日本の高速自動車国道に相当し、日本の自動車専用道路に相当するのは、クラフトファールシュトラーセ(Kraftfahrstrase) である。通称としてシュネルシュトラーセ(Schnellstrase) とも呼ばれ、こちらは「高速」の語感に近い。法定最高速度はなく、推奨速度は130 km/hが表示されているが、混雑区間や合流分岐付近あるいは急坂区間には制限速度が設定され、概ね100 km/hから130 km/hである[2]。路線番号は東西方向が偶数、南北方向が奇数に割り振られている[3]。ドイツの法定最高速度ルールはいたって簡単で、アウトバーン以外では街の始まりを示す標識から終わりを示す標識の間の市街地は50 km/h、住宅街・学校近辺には30 km/h規制標識も点在し、それ以外は100 km/hである。

総延長は、およそ13,000 km、連邦道路(Bundesstrase)はおよそ40,000 km。両者を合わせて連邦遠距離道路(Bundesfernstrase)と呼ぶ。

スイスフランスオーストリアオランダチェコスロバキアデンマークポーランドなど隣り合う各国の高速道路と密接に接続されている。オーストリア、スイス、チェコ、スロバキアではヴィネット(ビネット、ビニエット)と呼ばれる通行料金の支払いを示したステッカーシールをフロントガラスに貼る。ヴィネットは国境のサービスエリアや当該国のガソリンスタンドで購入できる。ヴィネットを貼っていない場合は通行料金と罰金を警察に徴収される。フランスの高速道路・オートルートイタリアの高速道路・アウトストラーダは有料となっている区間が多く、国境を越えると本線上に料金所が現れる。オランダ、ベルギールクセンブルクの高速道路は無料であるため、国境を示すEUの標識があるのみである。デンマークの高速道路は無料だが海底トンネルは有料である。
歴史
ヴァイマル共和政アウトバーン起工式で演説するヒトラー第二次大戦期のアウトバーンを走行する2台のKdFワーゲン(後のフォルクスワーゲン)。KdFは小型車ながらアウトバーンを100 km/h連続巡航可能に設計され、1938年から戦時中にかけて少数が先行して限定製造された。短いスパンで打設されたコンクリート舗装が観察できる。1943年撮影

アウトバーンのような自動車専用道路の構想はドイツ帝国時代やヴァイマル共和政時代にも行われていた。1913年から1921年にはベルリン郊外にアヴス (Automobil-Verkehrs- und Ubungsstrase) と呼ばれる専用道路が作成され、1928年から1932年には、ハフラバ(ドイツ語: HaFraBa)(ハンザ同盟都市=フランクフルト=バーゼル間自動車高速道路建設協会)によってケルンボン間の道路が完成した。「アウトバーン」の名称は1929年にこの団体が作成したものである。しかしアヴスは9 km、ケルン=ボン間は35 kmにすぎなかった。これは当時の自動車の普及度がかんばしくなかったこと、当時の政治家が鉄道網や既存の道路網拡張で十分であると考えていたことが原因であった[4]
世界恐慌以降

アウトバーン着工や病院建設などの公共事業経済政策の一環であった。1929年に起こった世界恐慌の影響を受け、ドイツの深刻な不況で少なくとも600万人が失業に苦しむ中、1932年から1933年での選挙キャンペーンで、ナチ党アドルフ・ヒトラーは国民に職とパンを与える[5]ことを約束した。ヒトラーの目的は

ドイツの失業率を下げる

ヴェルサイユ条約を実質上破棄し、再軍備をすることで雇用を創出する

ドイツのアウタルキー(国家レベルでの経済的自給自足)の標榜

であり、その経済政策の責任者はドイツ帝国銀行総裁のヒャルマル・シャハトであった。1936年にはヘルマン・ゲーリングが総裁となり、4年計画を打ち出した。18から25歳までのすべてのドイツ男子は兵役義務が課されたが、これは保証された仕事であり、ドイツ国民はこれに感謝[5]した。国家労働奉仕団(Reichsarbeitsdienst, RAD) と呼ばれる労働政策に着手し、18から25歳までの全てのドイツ男子に6か月の労働研修や植林、畑仕事、軍服着用などを課した。これらの財政政策により1939年には失業者の数は多くとも35万人にまで減少した。

1933年首相となったヒトラーは、「休日には低所得者層が自動車に乗ってピクニックに出られる」暮らしが必要であると唱え、2月11日に国際自動車オートバイショー (Internationale Automobil- und Motorradausstellung) の会場でモータリゼーションと自動車道路網の構築を約束した[4]。この後にハフラバの会長ヴィリー・ホーフが「ヨーロッパ横断道路計画」を、ザーガー・ヴェルナー社のフリッツ・トートが「ミュンヘンキーム湖間」の道路計画を提出した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ホーフの計画はヴァイマル時代にすでに提出されていたが、4月6日にホーフと会談したヒトラーはその計画をドイツ全体を覆う高速道路計画とするべきとし、計画の練り直しを命じた[要出典]。5月1日に行われた「国民労働記念日」の式典で、ヒトラーは全長7,000 kmにおよぶ「帝国アウトバーン」(Reichsautobahnen) の計画を発表し、6月27日には「帝国アウトバーン会社の設立に関する法律」(Gesetz uber die Errichtung eines Unternehmens ?Reichsautobahnen“) が発布された。6月30日にはドイツ国有鉄道の子会社として帝国アウトバーン会社 (de:Reichsautobahn) が設立され、トートが「ドイツ道路総監」(Generalinspektor fur das deutsche Strasenwesen) に就任した。トートは一介の技術者であったが、ヒトラーに提出した設計図が気に入られ、この後も要職につくことになる。9月23日にはヒトラー臨席の鍬入れ式が行われ、アウトバーン建設が始まった。11月30日には道路総監が総統直属の最高官庁であると定められた[6]

この工事の特徴として、あえて機械化比率を抑制し、失業者を雇用しての人力施工部分を多くして失業対策効果を狙ったことや、打設に手間が掛かるものの、長期的に見て耐磨耗性に優れるコンクリート舗装を主に採用したことが挙げられる。建設に参加した労働者は1933年末には1,000人以下であったが、1937年には10万1,000人、1938年には12万人に達し、それ以外の国道建設のために10万人が雇用された[7]。「代替滑走路#ドイツ」も参照

第二次世界大戦の開戦までに3,860 kmが完成していたが、量産直前まで至っていた「国民車」フォルクスワーゲンの構想は開戦によって頓挫してしまい、一般国民の私有するフォルクスワーゲンが走ることは一度もなかった[8]。1943年8月には自転車の乗り入れが許可された[9]。大戦中は連合軍の空襲を避けるためにトンネルや近くの森の中に航空機を隠し、滑走路代わりとして利用した。


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