市旗市章
位置
オースト=フランデレン州の位置
アウデナールデの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度51分00秒 東経03度36分00秒 / 北緯50.85000度 東経3.60000度 / 50.85000; 3.60000
アウデナールデ(オランダ語: Oudenaarde [??u?d?na?rd?]、フランス語: Audenarde(オードナルド))は、ベルギーのオースト=フランデレン州にある基礎自治体(以下、便宜上「市」と表記する)である。アウデナールデ市とベフェーレ (Bevere) 、エデラーレ (Edelare) 、エイネ (Eine) 、エナーメ (Ename) エルネ (Heurne) 、レペヘム (Leupegem) 、マーテル (Mater) 、メルデン (Melden) 、ミュレム (Mullem) 、ネーデレナーメ (Nederename) 、ウェルデン (Welden) 、フォルケヘム (Volkegem) の各町およびオーイケ (Ooike) 町の一部からなる。
15世紀から18世紀(ことに16世紀)にタペストリー生産で世界的に知られ、「古い牧草地」を意味する町の名は、茶色のリネン糸の一種を指す英語「アウトナル」 (Outnal) の語源ともなった(いまは死語)。「フランデレン・アルデンヌの真珠」の異名をとる。 いまのアウデナールデ市の歴史は、東フランク王にしてローマ皇帝のオットー2世がスヘルデ川河畔のエナーメに砦を築いたことに端を発する。フランク王国の侵略にそなえた同様の防御施設は、ヴァランシエンヌとアントワープにも置かれた。エナーメはたちまち発展し、1005年までに二軒の教会堂をそなえたロタリンギア最大の町になった。一方で1033年、時のフランドル伯ボードゥアン4世が皇帝ハインリヒ3世に対する前線として市街を占領。1047年には子のボードゥアン5世がベネディクト会の修道院を建立し、支配を強化した。かつての大商人やギルドの職人連はスヘルデ川対岸にのがれ、ここに新しいアウデナールデ市が生まれた。 スヘルデ川の水運と被服・タペストリー産業の勃興に支えられ、経済は11世紀に全盛を極めた。教会や修道院、病院が建てられた。中世を通じアウデナールデのまちは大の伯爵びいきで、ゲントなど南方で起こる反乱を食い止める役目を果たしたため、「貴紳たちの住まい」としても知られた。1526年から1537年に建てられた町役場は、いまも目にすることができる。1522年にはカール5世が2か月間滞在し、ネーデルラント総督となるマルゲリータ・ダウストリアをもうけた。 宗教改革でアウデナールデ市民はプロテスタントにつき、ヘントと同盟してカール5世に反旗をひるがえした。マルゲリータの子のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼによる長期包囲ののち、市街は1582年に帝国の手におち、商人や労働者、貴紳までもが亡命した。対抗宗教改革で一旦はタペストリー取引の回復も見られたが、栄光の日々は戻ってこなかった。これ以後100年間で三度もフランスから攻撃・占領を受けた。1708年には郊外でスペイン継承戦争のアウデナールデの戦いが交わされた。ハプスブルク帝国体制下で、アウデナールデは活力を失っていった。 フランス革命の影響は、この地方にも宗教的権威の凋落という形で現出した。市街には第一次世界大戦の戦禍を今に伝えるモニュメントがいくつか置かれている。
歴史
エナーメの栄光
黄金時代デフェンターの地図に描かれた市街(1558年ごろ)
黄昏フェラリスの地図に描かれた市街(1775年ごろ)
名所パメレの聖母教会
フランボワイアン・ゴシック建築の町役場と鐘楼 - 1999年にユネスコの世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」の一つとして登録された。