アウディ
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アウディ
Audi AG

インゴルシュタットの本社
種類株式会社
本社所在地 ドイツ
バイエルン州インゴルシュタット
設立1909年7月16日
業種自動車産業
事業内容自動車
売上高7兆4925億円(2018年)
営業利益4463億円(2018年)
従業員数90,000(2019年)
主要株主フォルクスワーゲンAG
主要子会社アウディスポーツ GmbH
ランボルギーニ
ドゥカティ
関係する人物アウグスト・ホルヒ(創業者)
外部リンクwww.audi.com
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アウディAG(Audi AG[注釈 1])は、ドイツの自動車メーカー。バイエルン州インゴルシュタットに本社を置く。親会社であるフォルクスワーゲンAGの子会社として、世界9か所の生産拠点で自動車を生産している。日本ではメルセデスベンツBMWとともにドイツ御三家と呼ばれるプレミアムブランドの1つ。
概要

ドイツ国内には、インゴルシュタット、ネッカーズルムに組み立て工場がある。過去にはKarmann-Rheineカブリオレモデルの80(1997年 - 2000年)、A4(2002年 - 2009年)を一部生産委託していた時期もあった。

2012年現在、ドイツ国外の生産拠点はハンガリージェールベルギーブリュッセルスペイン・マートレル、スロヴァキアマルティンブラチスラヴァ(両工場はVWのプラント)、インドアウランガーバード中華人民共和国長春市の7箇所に置いている。

なお、2013年度から中国仏山市でも生産(年間生産能力15?20万台)が開始される予定。

同グループでは、主に中?上級価格帯を対象とするブランドと位置づけられている。「クワトロ」(quattro)という名称の四輪駆動システムを持ち、アルミボディなど先進的な技術を用いる傾向がみられる。ディーゼルエンジンTDI)を、環境対策上のガソリンエンジン車の代替と位置づけており、重点的に開発・宣伝を行なっている。車種構成はフロントエンジン・前輪駆動(FF)車とFFベースの四輪駆動車がほとんどである。従来車体デザインがおとなしいと評されていたが、最近はデザイン的にもBMWメルセデスベンツに引けを取らないよう押しの強いデザインを取り入れ、フロントマスクが睨み付けるようなデザインのモデルも増えてきた。
エンブレムアウディのエンブレム

現在のアウディ車に使われている「フォーシルバーリングス」と呼ばれる4つの輪を組み合わせたエンブレムは、かつてのアウトウニオンのエンブレムに手を加えたもので、アウトウニオン設立に参加した4社の団結を象徴するものである。なお、左から順にアウディ、DKWホルヒヴァンダラーを指すものとされる。

なお、アウトウニオン設立以前のアウディのエンブレムはアルノ・ドレッシャー(ドイツ語版)のデザインになるもので、"audi"と書かれた逆三角形の上に半球が乗り、更にその上にアラビア数字の「1」が乗るといったものであった。
名称

創業者アウグスト・ホルヒ(de:August Horch)の姓「horch」は、「聞く」を意味するドイツ語「horchen」を連想させるものであった。これをラテン語に訳した言葉にちなむ[1]。「horch」は「horchen」の親称二人称単数の命令形であり、そのラテン語が「audi (aud?)」である。

後述するように、ホルヒは「ホルヒ自動車製造株式会社」から追放されたのち、新会社「ホルヒ自動車製造有限会社」を設立したが、裁判所に訴えられ名称を使用することができなくなった。ホルヒが友人のフランツ・フィッケンチャー(ドイツ語版)と相談した際、フランツの息子ハインリッヒが「聞く」という意味のラテン語「アウディ」はどうかと提案し、それが採用されることになった[2]

1985年にアウディNSUアウトウニオンAGからアウディAGへ社名変更したが、「アウディ」が選ばれた理由は「世界のだれもが発音しやすい名前」だからという[3]
沿革
創業期

創業者はアウグスト・ホルヒ(August Horch、1868-1951年)。自動車史の黎明期にメルセデス・ベンツ工場長を務めた後に独立、ザクセン州ツヴィッカウホルヒを設立し、1901年から自動車生産を開始、当時としては高性能・高品質の自動車を送り出して名声を得る。

しかしアウグスト・ホルヒは、良質の車を作ることにこだわって経営面への配慮を欠くきらいがあり、1909年には経営陣から追放を受けた。速やかに自力で別のホルヒを設立、自動車生産を開始したが、元のホルヒの抗議によって、同一社名・車名を使うことを差し止められる。

この結果、アウグスト・ホルヒは1910年に自社の社名・車名を「ホルヒ」から「アウディ」に変更。アウディとはラテン語で「聞く」という意味で英語のaudioの語源であり、ホルヒのドイツ語での意味と同義である。

アウディは2612 cc(2.6 L)4気筒のモデルからスタートし、3564 cc(3.6 L)、4680 cc(4.7 L)、5720 cc(5.7 L)となっていく。これらは人気を得、スポーツイベントでも活躍した。アウグスト・ホルヒは1920年にアウディを去った。初の6気筒モデルは1924年の4655 cc(4.7 L)だった。1928年、アウディはDKWのオーナーだったイェルゲン・スカフテ・ラスムッセンに買収される。同年、ラスムッセンは米国リッケンバッカー自動車の生産設備を購入、この設備は1929年から生産された高級モデル、ツヴィッカウ(Audi Zwickau)とドレスデン(Audi Dresden)で使われ、またこれらにはリッケンバッカーのエンジンを搭載した。他にプジョーからライセンスした4気筒エンジンを搭載したモデルも生産された。この時期のアウディ車は特殊なボディワークがなされた高級車だった。
アウトウニオンアウディタイプE

第一次世界大戦後の不況の中、ドイツ自動車市場にはアメリカ大手自動車メーカーが大挙して進出し、既存の国内メーカーを脅かしていた。これに対抗するため、1932年にザクセン州に本拠を置く中堅メーカーであったDKW、アウディ、ホルヒヴァンダラーの4社が合同し、新たにアウトウニオン(Auto Union, 自動車連合)を結成した。「アウディ」ブランドのモデルは同社の中級?高級クラスの車種として存続したが、第二次世界大戦勃発で製造中止された。

アウトウニオンは、第二次世界大戦の戦禍とその敗戦後のソ連によるザクセンの工場接収という壊滅的な被害から逃れ、西ドイツのインゴルシュタットを新天地として再出発した。部品やバイク、バンの生産を経て、「アウトウニオン」および「DKW」ブランドで乗用車の生産を再開した。1956年から1964年まではダイムラー・ベンツの支配下にあり、1964年以降はフォルクスワーゲンの傘下となっている。詳細は「アウトウニオン」を参照
アウディの復活

1965年に「アウディ」ブランドの乗用車生産が再開され、前輪駆動の堅実な中級セダンを主軸とする形で80・スーパー90・100などモデルのラインナップを広げた。1969年にはロータリーエンジンの開発で知られたNSUを併合、アウディNSUアウトウニオンとなる。以降は80や100シリーズなどのヒット作を世に送り出しフォルクスワーゲン・グループの中?上級クラスを担うブランドとして発展した。1985年に社名をアウディに変更した。

1980年代には乗用車用四輪駆動システムの「クワトロ」を開発し、「四輪駆動はオフロード向け」というイメージを塗り変えた。

1986年には、今では鉄の防錆に欠かせない亜鉛めっきを量産車として世界初採用し、車体の耐久性・持続性を向上させた[4]。後に他の自動車メーカーも追随した。

フォルクスワーゲンのゴルフはアウディが開発を手がけた車である。1970年代、ビートルの後続車の開発がなかなか進まないフォルクスワーゲンにアウディの社長だったルドルフ・ライディングが移籍し、当時フォルクスワーゲンがビートルの後続モデルとして計画しポルシェが設計・開発していたミッドシップの2ドア・ハッチバック試作車EA266を設計図を見たとたんに開発中止を命じ、元職場で計画中だったFF車を急遽代案として採用した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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