アウシュヴィッツ強制収容所
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「アウシュヴィッツ」はこの項目へ転送されています。都市そのものについては「オシフィエンチム」をご覧ください。
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この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ
ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)
ポーランド

「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線
英名Auschwitz Birkenau
German Nazi Concentration and Extermination Camp (1940-1945)
仏名Auschwitz Birkenau
Camp allemand nazi de concentration et d'extermination (1940-1945)
面積192 ha
登録区分文化遺産
登録基準(6)
登録年1979年
備考負の遺産
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図

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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、ドイツ語: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau、ポーランド語: Oboz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)は、ナチス・ドイツ第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容者の90%がユダヤ人アシュケナジム)であった。

アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ[注 1])に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)に作られた。周辺には同様の施設が多数建設されている。ユネスコ世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に世界遺産リストに登録した。公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「負の世界遺産」に分類されることがしばしばである[1]。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。

この項では、ビルケナウに限定せず、アウシュヴィッツ全体について述べる。
概要

アドルフ・ヒトラー率いるドイツが行ったホロコーストの象徴と言われる「アウシュヴィッツ強制収容所」とは、1940年から1945年にかけてドイツが占領下においた現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外に作られた、強制的な収容が可能な施設群(List of subcamps of Auschwitzに一覧)の総称である。ソ連への領土拡張をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計画」[注 2]を推し進め、併せて占領地での労働力確保および民族浄化のモデル施設として建設、その規模を拡大させていった。

地政学的には「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」など、広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の労働力を集め、戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに適していると言える。また、次第に顕著となったアーリア人至上主義に基づいた「アーリア人以外をドイツに入国させない」といった政策がドイツ国内の収容所の閉鎖を推し進め、ポーランドに大規模な強制収容所を建設する要因にもなった。

労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには「劣等民族」を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ[注 3](参考:ホロコーストホロコースト否認)。

収容されたのは、ユダヤ人をはじめ、政治犯ロマシンティジプシー)、精神障害者身体障害者同性愛者、捕虜聖職者エホバの証人、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)[注 4]により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

なお1942年初めには、イギリスBBCラジオで「ユダヤ人がヨーロッパ内部の強制収容所に送られ、多数が殺害されている」と報じているが、同じ連合国アメリカでは、強制収容所の存在については犯罪者隔離施設であるかのように見せかけるドイツの計画がうまくいったためか、大戦終結まで殆ど報じられぬままであった。

たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、
ナチス党が掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと

領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産性確保(必要な栄養や休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと[注 5]

1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったこと

などが挙げられる。

併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる[注 6]。生存は、1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた者と、解放間際に他の収容所に移送されるなどした者を合せても50,000人程度だったと言われている。

すべての強制収容所は、ナチス親衛隊(SS)全国指導者であったハインリヒ・ヒムラーによって、SSの下に集約されており、SSが企業母体[注 7]となる400以上[注 8]にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用。


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