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フリードリヒ・レオポルト・アウグスト・ヴァイスマン
生誕1834年1月17日
フランクフルト・アム・マイン
死没1914年11月5日
フライブルク・イム・ブライスガウ
国籍 ドイツ連邦→ 北ドイツ連邦→ ドイツ帝国
研究分野初期の遺伝学、発生生物学、進化生物学
研究機関ウィーン博物館、ギーセン大学、フライブルク大学
出身校ゲッティンゲン大学
主な業績生殖質論(個体発生と進化の区別)
主な受賞歴ダーウィン・メダル (1908年)
ダーウィン=ウォレス・メダル (1908年)
プロジェクト:人物伝
フリードリヒ・レオポルト・アウグスト・ヴァイスマン(Friedrich Leopold August Weismann, 1834年1月17日 - 1914年11月5日)は、ドイツの動物学者。オーギュスト・ワイスマンなどとも表記される。フライブルク大学動物学研究所所長。専門は発生学・遺伝学。エルンスト・マイアは彼をチャールズ・ダーウィンに次いで19世紀で2番目に重要な進化理論家であり、同時に自然選択を実験的に検証しようとした最初の一人であり、熱烈なナチュラリストでもあったと表現した[1]。 古典と神学を学んだ高校教師の父親ヨハン・コンラート・ヴァイスマンと市議会議員の娘である母エリーザの元に、フランクフルト・アム・マインで生まれた。19世紀の典型的な上流階級の教育を受け、4歳から音楽を、14歳からは絵とスケッチのレッスンを受けた。彼のピアノの教師は熱心な蝶のコレクターで、蝶や青虫の収集を彼に教えた。しかし自然科学を学ぶことは彼の将来の仕事とは関係がないと見なされ、家族の友人フリードリッヒ・ヴェーラーからは薬学の勉強を勧められた。16歳の時に母エリーザが亡くなり、その遺産によってゲッティンゲン大学で学ぶことができた。1856年に卒業すると人体における馬尿酸の合成に関する論文を書いた。 卒業後にロストックの都市病院で助手の職を得た。その後病院と博物館で学ぶためにウィーンに留学し、医師の資格を取って卒業した。1859年にオーストリアとフランス・イタリア間に第二次イタリア独立戦争が起きると、ヴァイスマンは軍医として従軍した。休暇の間には当時オーストリア領であった現在の北イタリアやチロル地方を巡った。 戦後、パリでサバティカルを送った後、ギーセン大学でルドルフ・ロイカルトとともに働いた。1861年から1863年まで追放されたオーストリア大公の一族ステファンの個人医としてフランクフルトに戻った。1863年からフライブルク大学で講師、1865年から教授、1873年から1911年まで動物学研究所の所長を務めた。この間の1879年には、後に作曲家になる息子ユリウス・ヴァイスマンが生まれている。1912年に引退、1914年にフライブルクで死去した。 1868年にフライブルク大学で就任講義にダーウィニズムを選んだときから、この理論を非常に重要なものと見なしていた。彼が進化の分野に踏み込んだときに最初に取り組んだのは、代替理論としてのキリスト教の創造論であり、著作『ダーウィン理論の擁護に関して』では、創造説と進化論を比較した。そして、多くの生物学的現象が進化論の枠組みの中には綺麗に収まるが、創造の結果であるとするなら多くが謎のまま残されると結論づけた[1]。 続いてヴァイスマンは進化を天文学の原理的な仮定(例えば地動説)と同じように、事実であると認める。遺伝メカニズムと遺伝が進化に果たす役割についてヴァイスマンの姿勢は幾度かかわった。 ヴァイスマンはチャールズ・ダーウィンをはじめとした他の19世紀の科学者の多くと同じように、観察される一つの種の個体の変異はダーウィンの用語の「毛変わり(Sports, 突発的な個体変異)」の遺伝の結果だと考えるところからスタートした。1876年の著作では彼は種の変化が環境の変化の直接の結果だと考えた。彼はこう書いた。「もしあらゆる変異が外部の状態への反応であるなら、発生の系統からの遺伝の逸脱として、進化は環境の変化無しには起きないはずである」。これは結果的に現在の進化の概念に近い。しかしヴァイスマンも器官の用不用という古典的なラマルク主義のメタファーを使用した。またこの時期には反復説を完全に受け入れており、昆虫の幼虫の模様を系統発生が歪んで現れたものとして説明した。しかし1882年後半にはこれを選択の結果として説明し直した[1]。 種分化に関する議論では、地理的隔離が不要で同所的種分化は起きえると主張していた。ヴァイスマンは個体変異 ヴァイスマンが獲得形質を最初に否定したのは1883年に行われた「遺伝について」と題された講義であった。彼は創造対進化に関する論文と同じように、どちらの理論でも個別の例を説明しようと試みる。例えばどのようにアリの不妊カーストの存在は、獲得形質の遺伝で説明できるのか。一部の昆虫の繁殖のように一生に一度しかない行動がどのようにして用不用で形作られるのか。これらは生殖質理論でなら説明が可能である[1]。
目次
1 生涯
2 進化生物学への貢献
2.1 1868年 - 1882年
2.2 1882年 - 1895年
2.3 1896年 - 1910年
3 生殖質説
3.1 ネズミの尾
3.2 発生学に関して
4 著作
5 脚注
生涯
進化生物学への貢献
1868年 - 1882年
1882年 - 1895年
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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