アウグスト・フォン・マッケンゼン
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アウグスト・フォン・マッケンゼン
August von Mackensen

渾名最後のユーサル
生誕1849年12月6日
プロイセン王国 ザクセン州ヴィッテンベルク
死没 (1945-11-08) 1945年11月8日(95歳没)
連合国軍占領下のドイツ ニーダーザクセン州
所属組織 プロイセン王国陸軍
ドイツ帝国陸軍
軍歴1869年 - 1919年
最終階級 陸軍元帥
除隊後 鉄兜団名誉連盟指導者
第5騎兵連隊名誉連隊長
国防軍名誉委員

プロイセン自由州評議員
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アウグスト・フォン・マッケンゼンAugust von Mackensen
所属政党無所属
プロイセン自由州評議員
在任期間1933年 - 1945年
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アウグスト・フォン・マッケンゼン(August von Mackensen, 1849年12月6日 - 1945年11月8日)は、プロイセンおよびドイツ陸軍軍人陸軍の最終階級は元帥第一次世界大戦で軍司令官として活躍した。その後ヒトラー率いるドイツ国防軍においても、象徴的存在と見られた。
経歴
青年期

荘園管理人の息子としてプロイセン王国ザクセン州ヴィッテンベルク近郊の屋敷に生まれる。出生名はアントン・ルートヴィヒ・フリードリヒ・アウグスト・マッケンゼン(Anton Ludwig Friedrich August Mackensen)である。村の学校に通ったのちトルガウのギムナジウムに入学。学校でピアノを習い演劇の際伴奏していた。1865年にハレに転校。翌年プロテスタント堅信を受ける。彼は生涯敬虔なプロテスタント信徒だった。ピッケルハウベを身に付けるマッケンゼン

1868年に成績不振で退学。虚弱と判断され兵役から外された。やむを得ず親元に帰り農業の修業を始める。しかし一転兵役に堪えると判断されてポーゼン州の第2ユサール連隊に一年志願兵として入営し、兵役を済ませた。その後ハレ大学農学の勉強を始め、同時に経済学史学の講義なども聴講。1870年の普仏戦争に予備役士官候補生として従軍。偵察で戦功をあげ、第二級鉄十字章を受章した。同年12月に少尉に任官。戦争終了後の翌年10月に大学に復学した。この頃から軍事学に興味を持ち、後年の1898年にドイツ軍事学協会を設立し名誉会長になっている。
プロイセン軍人

1873年、職業軍人の道に進む。勤勉かつ意欲的に軍務をこなし、高い評価を得た。マッケンゼンは上官の評価を得るすべを心得ていた。また戦記の執筆でも高い評価を得て、軍部内で名を高めることに成功した。1877年にケーニヒスベルク駐屯軍に転属。そこで彼が書いた戦記の中で顕彰した将校の妹、ドロテアと知り合う。1878年、中尉に昇進。翌年ドロテアと結婚。彼女の父は東プロイセン州知事であり、マッケンゼンの出世に好影響を与えたことは否定できない。

陸軍大学で学んだ後、1880年に参謀本部に転属。1882年には大参謀本部付。1891年、新参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンの第一副官となる。1898年からは皇帝ヴィルヘルム2世の副官に転じた。1899年、ヴィルヘルム2世の40歳の誕生日を祝って彼は貴族に叙され、以後は「フォン・マッケンゼン」を名乗るようになった。1901年にダンツィヒに新設されたユサール旅団長に就任。オーストリア=ハンガリー軍最高司令官ヘルマン・ケーヴェス元帥とマッケンゼン(右)(1916年)
第一次世界大戦1915年、セルビア戦線(英語版)でのマッケンゼン元帥。

1914年に第一次世界大戦が勃発。この戦争では、彼の参謀長だったハンス・フォン・ゼークトと共に、戦略家としての名声をほしいままにすることになった。開戦直後の8月に第17軍団司令官に就任。東プロイセングンビンネン付近でロシア軍と激突したグンビンネンの戦い(ドイツ語版、ロシア語版、英語版)では2時間で9000人が戦死する凄惨な戦いを経験し、のちに「あれは大虐殺だった」と回顧している。しかし直後のタンネンベルクの戦いでは彼の軍団はロシア第2軍を包囲するうえで決定的な役割を果たした。同年11月、第9軍司令官に就任。セルビア征服に成功。翌1915年4月、新設の第11軍司令官に転じる。5月のゴルリッツ=タルヌフ攻勢では毒ガスも使用してロシア軍の戦線を突破した。この戦功により元帥に昇進。翌1916年にはオーストリア軍との共同作戦でルーマニアを征服し、終戦までルーマニア軍政総督を務めた。

終戦時ハンガリー及びサロニキで拘束され、1919年にドイツに戻った。彼は他の旧軍人と同じく、ドイツは戦争で負けたのではなく内政の混乱で負けたと信じており、ドイツ革命で成立したヴァイマル共和国には否定的だった。ヴェルサイユ条約の廃棄をドイツ政治の最大の義務と捉え、1918年11月11日に連合国との休戦条約に調印したマティアス・エルツベルガー財務相が右翼に暗殺されたときには「恥さらしが逝った」と述べている。こうした立場から、彼は民主主義者ではなく民族主義者に属するとみなされている。
ナチスとの関わり1935年3月17日、英雄追悼記念日の行事に参列し、ヒトラーと並んで歩くマッケンゼン(中央左端、ユサールの礼服を着た人物)

台頭するナチスに対する姿勢は複雑だった。伝統的なプロイセン軍人としてナチスに懐疑的ではあったが、同様な立場にあった元軍人のパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領と違い、アドルフ・ヒトラーを認めていた。ナチスはドイツ帝国の伝統とナチスによる「第三帝国」の連続性を強調するためにプロイセンを利用したが、マッケンゼンへの接近もその一つだった。ヒトラーは1935年にブランデンブルク州で荘園をマッケンゼンに与えている。ただしマッケンゼンはドイツ軍や親衛隊によるポーランドでの蛮行や、ナチスの反教会政策には真っ向から反対し、抗議の公開書簡を発表している。また長いナイフの夜事件によるシュライヒャーブレドウらの死についてはヒトラーに直接抗議し、容れられないと見ると将校28名と連名でヒンデンブルク大統領に書簡を送っている。この書簡の中でブロンベルク国防相やノイラート外相とナチスの閣僚を罷免し、執政機関による統治を要請している[1]


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