アウグスト・ハイスマイヤー(August Heismeyer、1897年1月11日‐1979年1月16日)は、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の高官。最終階級は親衛隊大将 (SS-Obergruppenfuhrer)。親衛隊本部やハイスマイヤー親衛隊大将本部(ナポラ学生教育担当部署)の長官を務めた。ナチス党の国家女性団団長 (Reichsfrauenfuhrerin) となるゲルトルト・ショルツ=クリンク(de:Gertrud Scholtz-Klink)と結婚していた。 ゲラーゼン
経歴
戦後、義勇軍(フライコール)で活動するとともに法律を学んだ。1925年1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党した。1925年から1928年まで突撃隊 (SA) に参加し、ゲッティンゲンの突撃隊の指揮を任された。ナチ党の南ハノーファー大管区のSA組織を築きあげた功績者となり、1928年10月から1930年にかけて南ハノーファー大管区大管区指導者代理に任じられた。
1930年1月に親衛隊(SS)に入隊(隊員番号4370)。1933年3月の総選挙で国会議員に当選。親衛隊上級地区「中央」(SS-Oberabschnitt "Mitte") や親衛隊上級地区「ライン」(SS-Oberabschnitt "Rhein")の指導者を務めた。1935年5月から1940年10月初めまで親衛隊本部 (SS-Hauptamt) の長官を務め、ハインリヒ・ヒムラーを補佐した(1940年にはゴットロープ・ベルガーと交代)。この間の1936年2月にはナポラの監督官に任じられている。1936年11月9日に親衛隊大将に昇進。1939年9月から親衛隊の上級親衛隊地区「東方」 (SS-Oberabschnitt "Ost")の指導者や「シュプレー」親衛隊及び警察高級指導者 (Hoheren SS und Polizeifuhrer "Spree") に任じられた。この地位によりベルリン・ブランデンブルク地域の監督を行うこととなった。
1940年に「ハイスマイヤー親衛隊大将本部」(Hauptamt Dienststelle SS-Obergruppenfuhrer Heismeyer) が作られ、その本部長となった。この機関はナポラの生徒の軍事教育・思想教育の担当部署であった。
1940年8月5日には強制収容所総監(Inspekteur der Konzentrationslager)に就任している。この職はもともとテオドール・アイケSS中将(当時)が務めていたが、彼は1939年11月から第3SS装甲師団を率いて出征したため、代わってリヒャルト・グリュックスSS大佐(当時)が就任していた。しかしおそらくグリュックスの階級が低すぎたために代わりにハイスマイヤーが強制収容所総監と親衛隊髑髏部隊司令官に就任することになったものである。しかし1942年に強制収容所が親衛隊経済管理本部の管理に移されたのを機に再度リヒャルト・グリュックスSS少将(当時)にその地位を譲った。
1944年11月14日には武装親衛隊大将位が授与された。大戦末期の1945年4月には国民突撃隊やヒトラー・ユーゲントから集められた「ハイスマイヤー戦闘団」の司令官となった。シュパンダウの飛行場防衛にあたった。
ドイツ敗戦後、妻とともにヴィート侯爵夫人パウリーネの計らいでベーベンハウゼン城に匿われたが、1948年2月29日にフランス占領地区のテュービンゲン近くで逮捕された。3年の懲役刑に処され、所有物を没収された。釈放後はシュヴェービッシュ・ハル郡で暮らし、西ドイツ・コカコーラのボトリング工場の取締役を務めた。シュヴェービッシュ・ハルで死去。
参考文献
Mark C. Yerger 著『Allgemeine-SS』(Schiffer Pub Ltd)(英語)ISBN 978-0764301452
更新日時:2013年4月2日(火)10:14
取得日時:2018/10/30 07:06