アウグスト・ストリンドベリ
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ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ
Johan August Strindberg

誕生 (1849-01-22) 1849年1月22日
スウェーデン ストックホルム
死没 (1912-05-14) 1912年5月14日(63歳没)
 スウェーデン ストックホルム
墓地 スウェーデン Norra begravningsplatsen
職業劇作家、小説家、エッセイスト、詩人、画家
国籍 スウェーデン
文学活動自然主義文学表現主義
署名
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ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg  聞く[ヘルプ/ファイル]、1849年1月22日 - 1912年5月14日)は、スウェーデンの劇作家、小説家。ユーアン・オーグスト・ストリンドバーリィ、アウギュスト・ストリンドベルヒとも表記される。
生涯と作品

ストックホルムに生まれる。ウプサラ大学に入り自然科学を修めたが、中途で退学し1874年王立図書館助手となり、その間1870年に王立劇場へ《ローマにてI Rom》という一幕物を提出して採用され上演。1872年に史劇《メステル・ウーロフ師 Master Olof》を発表したがそれは認められず、憤懣のはけ口として1879年に諷刺小説《赤い部屋(英語版)》を発表して名声を得た。1877年に男爵夫人であったシリ・フォン・エッセン(英語版)と結婚する。史劇、童話劇、ロマン的史劇等を発表し1883年フランスに行き、1885年社会主義的傾向の短篇集《スイス小説集 Utopier i verkligheten》《結婚 Giftas, 1884-85年》を書き、後者は1884年に宗教を冒涜するものとして告訴され、フランスから国外退去を命ぜられた。

自伝的小説《女中の子 Tjanstekvinnans son, 1886年》《ある魂の成長 En sjals utvecklingshistoria, 1886年》《痴人の告白 Die Beichte eines Thoren, 1893年》を発表。この最後のものはフランス語で書かれ、ドイツ語ではじめて発表された。のちゲーオア・ブランデスフリードリヒ・ニーチェの影響のもとに精神的貴族主義に転じ、小説《チャンダラ Tschandala, 1889年》《大海のほとり I hafsbandet, 1890年》を書いた。

1891年に離婚し、1892年ベルリンに移った。居酒屋「黒仔豚亭」で、ポーランドのジャーナリストスタニスワフ・プシビシェフスキや、ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクと交友を持った。1893年オーストリアの女流作家フリーダ・ウール(英語版)と結婚したが2年後に不幸な結果に終った。1894年パリに移り、自然科学、特に錬金術に没頭する。またスヴェーデンボリの影響をうけて神秘主義に接近し、不幸な結婚生活を回顧して自伝的小説《地獄 Inferno, 1897年》《伝説 Legender, 1898年》を書き、また戯曲《ダマスクスヘ Till Damaskus, 1898-1904》によって自然主義から離れた。

1899年からストックホルムに定住し《グスタフ・ヴァーサ Gustaf Vasa, 1899年》をはじめ多くのスウェーデン史劇、ルターを主人公とした《ヴィッテンベルクの夜鶯 Naktergalen i Wittenberg, 1903年》を書いた。1901年に女優ハリエット・ボッセ(英語版)と結婚したが1904年に離婚。長篇小説《ゴシックの部屋 Gotiska rummen, 1904年》《黒い旗 Svarta fanor, 1907年》は、このころの混乱した精神から生まれた。1907年に〈親和劇場〉を設立しその劇場のために《室内劇 Kammarspel》を書いたが、経営困難のため3年後に閉鎖。晩年の随筆集《青書 En bla bok, 1907-12年》には、ふたたび社会主義的な関心が示されている。
逸話カール・ラーションが1899年に描いたストリンドベリ。リッカルド・ベリが1905年に描いたストリンドベリ。

オカルト研究でも知られ金の製造の研究をしていた。若い頃から科学ファンであったし「アンチバルバルス」を書いた時は大科学者としての名声を期待したが「詐欺師」「馬鹿」と言われた。

画家のカール・ラーションとは1879年から交流があり、ラーションに著書の挿絵を依頼したりしたが、1908年にストリンドベリが著書でラーションを批判したことから、二人の関係は終結した。いっぽう、画家のリッカルド・ベリと1889年より交流を持ち、ベリがストリンドベリを描いた肖像画はベリの最も有名な絵画の一作となった。
著作
主作品

戯曲

父 Fadren, 1887年

友だち Kameraterna, 1887年

令嬢ジュリー
(英語版) Froken Julie, 1888年

『令嬢ジュリー』毛利三彌訳、論創社〈注釈付〉近代古典劇翻訳、2022年


降臨節 Advent, 1899年

死の舞踏(英語版) Dodsdansen, 1901年

白鳥姫 Svanevit, 1902年

夢の戯曲(英語版) Dromspelet, 1902年

訳書に『ストリンドベリ名作集』 白水社、新装版2011年5月
「父」「令嬢ジュリー」「ダマスカスへ」「罪また罪」「死の舞踏」「幽霊ソナタ」の6作品。毛利三彌千田是也ほか訳


絆 The Link

訳書は嶋田青峰訳『絆』[1]


ルーテル Luther: die Nachtigall von Wittenberg, 1903年[2]

表題は「ルター: ヴィッテンベルグナイチンゲール」の意。


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