アイーダ
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この項目では、オペラについて説明しています。その他の用法については「アイーダ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
『アイーダ』ヴォーカル・スコア表紙(1872年頃出版)

音楽・音声外部リンク
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Verdi:Aida - ガルシア・ナバロ指揮サンフランシスコ歌劇場管弦楽団・合唱団他による演奏。ワーナークラシックス(Warner Classics)公式YouTube。
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『アイーダ』 (: Aida) は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲し、1871年に初演された全4幕から成るオペラである。ファラオ時代のエジプトエチオピア、2つの国に引裂かれた男女の悲恋を描き、現代でも世界で最も人気の高いオペラのひとつである。また第2幕第2場での「凱旋行進曲」の旋律は単独でも有名である。

この作品はしばしば「スエズ運河の開通(1869年)を記念して作曲された」あるいは「スエズ運河開通祝賀事業の一環としてカイロに建設されたオペラハウス?落し公演用に作曲された」といわれることがあるが、以下に述べるようにこれらはいずれも正確ではない。エジプトを舞台にしたメジャーなオペラはモーツァルトの『魔笛』以来だが、ほぼ無国籍なファンタジーである『魔笛』にくらべ、国家の興亡がメインに据えられた壮大なご当地オペラになっている。
基本データ

原語曲名:Aida/Aida

原案:
オギュスト・マリエット

原台本:カミーユ・デュ・ロクル

台本:アントニオ・ギスランツォーニ

作曲時期:1870年に作曲に着手

初演:1871年12月24日カイロカイロ劇場にて、ジョヴァンニ・ボッテジーニ指揮による

作曲の経緯

ドン・カルロ』の初演(1867年)、『運命の力』の改訂初演(1869年)の後、ヴェルディの次作検討作業はパリ在住のオペラ台本作家で、オペラ座オペラ=コミック座の支配人であったカミーユ・デュ・ロクルとの間で進められていた。デュ・ロクルは種々の戯曲・小説をヴェルディに送付していた。

それらのうちヴェルディが何がしかの興味を示したことがわかっているのは、ウジェーヌ・スクリーブの『アドリエンヌ・ルクヴルール』(Adrienne Lecouvreur) と、モリエール作『タルチュフ』(Le Tartuffe, ou L'Imposteur) 、それにロペス・デ・アジャラの "El Tanto por Ciento" であった。後の2作が喜劇であったことは興味深い。ヴェルディがそれまでに作曲したオペラ・ブッファは、第2作『一日だけの王様』(1840年初演)1作のみで、オペラ・ブッファというジャンルそのものが19世紀後半のイタリアでは人気薄だったことを考える時、ヴェルディがこの頃何故ブッファを考えていたのかは謎である。人生最後の作品『ファルスタッフ』(1893年初演)でブッファに回帰する萌芽が、その20年以上前からあったのかもしれない。
カイロからの委嘱ラダメス(ジュゼッペ・ファンチェッリ)とアイーダ(テレサ・ストルツ)、1872年のスカラ座ヨーロッパ初演(第4幕、第2場)(レオポルド・メトリコヴィッツ作)

このデュ・ロクルの新作交渉とはまったく別個に、ヴェルディに祝典のための作曲依頼があった。依頼元はエジプトの総督イスマーイール・パシャである。それは1869年11月に開通したスエズ運河の祝賀事業の一環としてパシャがカイロに建設したオペラ劇場(「イタリア劇場」とも)の開場式典の祝賀音楽の作曲依頼であり、時期は1869年8月以前のことである。その時ヴェルディは「自分は普段から、臨時機会用の音楽 (morceaux de circonstance) を書くことには慣れておりません」といって断っている。

結局、1869年11月6日の劇場の?落としではヴェルディの既作オペラ『リゴレット』がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころか、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて伝えてきたのである。題材としてパシャが用意したのは、考古学者オギュスト・マリエットの著した23ページにわたる「原案」であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、1849年からルーヴル美術館のエジプト考古部に勤務、1851年からエジプトに渡り研究を続け、イスマーイール・パシャの信頼も篤く、「ベイ」(1858年)、更には「パシャ」(1879年)の尊称を与えられた人物だった(このためその名はしばしば「マリエット=ベイ」あるいは「マリエット=パシャ」と表記される)。

依頼がヴェルディのもとに届いたのは1870年の春で、スエズ運河が開通し、オペラ劇場も開場した後である。しかしこの経緯が後年になって、『アイーダ』がスエズ運河開通を記念すべく作曲された、といった俗説の流布に寄与することになった。

イスマーイール・パシャはヴェルディの作品を愛していたというより、ヨーロッパの大作曲家による、エジプトを舞台とした荘厳なオペラ作品を自分が統治するカイロのオペラハウスで上演したい、という夢と希望を持っていた。実際、イスマーイール・パシャはデュ・ロクルに「ヴェルディが依頼を断ったら、依頼先はグノーワーグナーに変更してもいい。」という内容の手紙も送っていた。デュ・ロクルがその手紙の内容を伝えたことで、ヴェルディのワーグナーに対するライバル意識が芽生え、それまでブッファによる新作題材を検討していた彼はこのマリエット原案による悲劇を真剣に検討することになった。「ワーグナー」の名を出すのは、ヴェルディに腰をあげさせるためのデュ・ロクルの作戦だった可能性もある。また、提示された原案には、愛と法、国家と個人それぞれの相克が描かれているとヴェルディが感じ取り、創作意欲を刺激されたこと、ヒロインのアイーダについては、当時愛人関係になっていたと思われる名ソプラノ、テレーザ・シュトルツに歌ってもらいたいとヴェルディが着想したことなども要因として指摘されている。

1870年6月にはヴェルディはこの新作の作曲に大枠で合意した。ヴェルディの提示した条件は

ヴェルディは作曲料として15万フランス・フランを受領する(これは彼の最近作『ドン・カルロ』の4倍という法外なものであった)

台本はヴェルディが彼自身の支出によって、彼の選んだ作家に作成させること

台本はイタリア語であるべきこと

1871年1月に予定される初演はヴェルディの選んだ指揮者によって行われるべきこと

ヴェルディ自身にはカイロに赴き初演を監督する義務はないこと

仮にカイロでの初演が6か月以上遅延した場合、ヴェルディは彼の任意の歌劇場でそれを初演できること

初演以外の全ての上演に関する権利はヴェルディが保持すること

という、もはや十分安定した生活を手にした世界的作曲家でありながら、相変わらず経済的に抜け目のない彼の特性が存分に発揮された要望であったが、闊達なイスマーイール・パシャはその全てを受諾したのだった。
台本に関与した人々『アイーダ』台本表紙(1890年)

マリエットの「原案」から『アイーダ』の台本が完成するまでには、以下のように多くの人々の関与が絡み合っている。
エジプト総督イスマーイール・パシャ。デュ・ロクルの言によれば、オギュスト・マリエットに『アイーダ』のアイディアを提供したのは、このパシャ自身であるという。もっともこれは、デュ・ロクルによる一種の「箔付け」の可能性が高い。

エジプト考古学者オギュスト・マリエット。イスマーイール・パシャの下で働く彼が、1870年に『アイーダ』(Aida) のフランス語による原案を作成した。全23ページにわたるもので、4幕6場よりなる。オペラのストーリー展開の骨格はこの段階でほぼ完成している。またマリエットはその後も、ヴェルディやギスランツォーニに対してエジプト考古学上のアドヴァイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当するなどしている。

パリのカミーユ・デュ・ロクル。1870年5月にマリエットの「原案」をヴェルディに送付、また6月には原案の内容を膨らませたフランス語による「原台本」を著した。「原台本」はデュ・ロクルがヴェルディのサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の自宅を訪問した際に書かれているため、この段階からヴェルディ自身のアイディアが入っているとも考えられる。例えば、マリエット「原案」第2幕、凱旋の場の前にアムネリスの居室の場面を挿入したのはデュ・ロクルとヴェルディの創意で、原台本の段階で書かれた可能性が高い。

ヴェルディ自身。マリエット「原案」前半2幕分をイタリア語に翻訳した。その後も彼の普段の創作の流儀に従い、台本作成全体に関してギスランツォーニに数々の指示を与えている。その指示は出演者の演唱に関し、言葉の語り方にもイメージを膨らませた細部にわたるものであったことが、ミラノ在住だったギスランツォーニと交わした書簡から明らかになっている。


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