アイ・ハヌム
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アイ・ハヌムアフガニスタンにおける位置
所在地タハール州, アフガニスタン
地域バクトリア
座標北緯37度10分10秒 東経69度23分30秒 / 北緯37.16944度 東経69.39167度 / 37.16944; 69.39167座標: 北緯37度10分10秒 東経69度23分30秒 / 北緯37.16944度 東経69.39167度 / 37.16944; 69.39167
種類都市
歴史
完成前4世紀
放棄前2世紀
時代ヘレニズム
文化ギリシャ人
追加情報
発掘期間1964年?1978年
関係考古学者ポール・ベルナール
状態廃墟

アイ・ハヌム(Ai-Khanoum, Ay Khanum)は、アフガニスタン北部のタハール州にあったギリシャ人による古代都市で、アレクサンドロス3世による征服後の紀元前4世紀に作られたグレコ・バクトリア王国の主要都市。アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria on the Oxus) に比定され、後のエウクラティディア(ギリシア語版、英語版) (Eucratidia) の可能性もある。"Ai-Khanoum" という名称はウズベク語で「月の婦人」の意[1]オクサス(Oxus、現在のアムダリヤ川)とコクチャ川(英語版)が合流する地点にあり、インド亜大陸への玄関口だった。アイ・ハヌムは約2世紀に渡り東洋におけるヘレニズム文化の中心地だったが、エウクラティデス1世の死後間もない紀元前145年ごろ遊牧民月氏の侵入によって壊滅した[2]

その遺跡は、1961年に当時のアフガニスタン国王ザーヒル・シャーが、狩猟をしていた際に偶然村人から石灰岩製のギリシャ的な彫刻を持つ柱頭を見せられたことを契機に発見された。1964年から1978年までポール・ベルナール(フランス語版)率いるアフガニスタン考古学フランス調査団が発掘し、ロシアの科学者も発掘を行っている。アフガニスタン紛争によって発掘は中断し、その地は戦場となってしまい、ほとんど原形をとどめていない。目次

1 立地条件

2 バクトリアのギリシア都市

2.1 建築物

2.2 彫刻

2.3 金石文

2.4 その他の遺物


3 地中海との交易

4 インドとの関係

5 貨幣

6 遊牧民の侵略

7 重要性

8 脚注・出典

9 関連項目

10 参考文献

11 外部リンク

立地条件 アイ・ハヌムはバクトリアの東端にあった。

この地に都市を築いた理由はいくつか考えられる。大きな川のほとりにあるため、農業用の灌漑水に事欠かなかった。アイ・ハヌムからヒンドゥークシュ山脈に向かう地域は鉱物資源が豊富で、特に歴史的バダフシャーン地方(現バダフシャーン州)のサリ・サング鉱山(英語版)から産出する「ラピスラズリ」が特に有名である。その他、「ルビー」(実際にはスピネル)やなどもある。さらに、バクトリアの中でも北方の遊牧民の領域と接している地点で、特に中国との交易に重要な場所だった。
バクトリアのギリシア都市

様々な工芸品や建築物が見つかっており、東洋の影響を受けた高度なヘレニズム文化があったことを示している。ヘレニズムの都市の特徴を全て備えており、ギリシア様式の劇場、ギュムナシオンコロネードに囲まれた中庭のあるギリシア様式の住居などがあった。アイ・ハヌムは1.5平方キロメートルの広さの大きなギリシア都市であり、セレウコス朝グレコ・バクトリア王国の主要な都市だった。また、紀元前145年ごろにグレコ・バクトリア王国のエウクラティデス1世が亡くなったころ、この都市は破壊され、その後二度と再建されなかった。
建築物 アイ・ハヌムで見つかった紀元前2世紀ごろのコリント式柱頭。アフマド・シャー・マスードがその地に要塞を築いた際に発見した。

調査団は様々な構造を発掘した。その一部は完全はヘレニズム様式で、一部はペルシア建築の影響を示している。

長さ2マイルの城壁が都市の周囲を囲んでいた。

塔(底辺が20m×11m、高さが10m)と城壁からなる要塞が中央の60mほどの高さの丘に建っていた。

直径84mの円形劇場があった。座席は35列あり、4千人から6千人を収容可能。支配者のための3つの特別席があった。同時代の他の円形劇場と比べると、バビロンのものより大きく、エピダウロスのものより若干小さい。

グレコ・バクトリア王国の巨大な宮殿は、ペルシアの宮殿の様式をやや思わせる様式である。

遺跡内で最大の建物は100m×100mのギュムナシオンである。ヘルメースヘーラクレースへのギリシア語の献辞が柱の一つに彫ってあった。献呈者の名としてギリシア風の名前が2つある(Triballos と Strato)。

都市の内外に様々な神殿がある。城壁内の最大の神殿にはゼウスの座像があるが、その様式はゾロアスター教風になっている。ギリシア建築のように円柱を多用した開放的な建築ではなく、壁で覆われている。

マケドニアの太陽アカンサス模様、動物(カニ、イルカなど)を描いたモザイクが見つかっている。

コリント式の円柱が多数見つかっている。


アイ・ハヌムで出土したアンテフィクサ(軒飾り)

ライオンの足の彫刻の間の日時計

彫刻 アイ・ハヌムで出土した紀元前2世紀ごろの化粧しっくい製の顔面

様々な彫刻の断片も出土しており、同時期の地中海での発展した様式よりも若干古い伝統的様式の彫刻が多い。

特に、素晴らしいギリシア様式の巨大な足の部分が見つかっており、全高5mから6mの彫像の一部と推定されている(神殿を支えていた円柱の高さに合わせて座った形の像だったと思われる)。その足が履いているサンダルがゼウスのシンボルを備えていることから、その像はオリンピアのゼウス像を小さくしたものと考えられる。

他にも次のような彫像の部分が見つかっている。

やや古風なキトーンを着た女性の彫像

化粧しっくいで形成された男性の顔

リースを持つ若者の未完成の彫像

ギリシアの料理人奴隷を表したガーゴイルの頭部

ヘルメースと思われるクラミスを着用した裸の男性のフリーズ

ギュムナシオンで出土した、そのギュムナシオンの責任者と思われる男性のヘルマ風の像。左手に長い棒を持っていたと思われ、それが役職を表していたと考えられる。

アイ・ハヌム周辺には彫刻に適した石が少なかったため、木の骨組みに粘土や化粧しっくいを盛っていく塑像が多く、その技法が中央アジアからさらに東へと広まっていき、特に仏教美術でよく見られるようになった。場合によっては手足だけを大理石で作っている。


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