アイン・ランド
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アイン・ランド
Ayn Rand
1943年
ペンネームアイン・ランド
誕生アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム
Alisa Zinov'yevna Rosenbaum
(1905-02-02) 1905年2月2日
ロシア帝国ペテルブルク
死没 (1982-03-06) 1982年3月6日(77歳没)
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
墓地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ヴァルハラ、ケンシコ墓地
職業作家思想家
言語英語
民族ロシア系ユダヤ人
市民権 ロシア帝国(1905年 - 1922年)
ソビエト連邦 (1922年 - 1931年)
アメリカ合衆国(1931年 - 1982年)
最終学歴ペトログラード国立大学
活動期間1934年 ? 1982年
主題哲学
代表作「水源
肩をすくめるアトラス
主な受賞歴プロメテウス賞?殿堂入り
1983年 『肩をすくめるアトラス
1987年 『アンセム
配偶者フランク・オコナー
(1929年4月15日結婚 ? 1979年11月7日死別)
影響を受けたもの

アリストテレストマス・アクィナスジョン・ロックカール・メンガーミーゼスドストエフスキーオー・ヘンリーヴィクトル・ユーゴー、H.L.メンケン、ニーチェイザベル・パターソン

影響を与えたもの

アラン・グリーンスパン客観主義運動参加者他

署名
ウィキポータル 文学
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アイン・ランド(Ayn Rand、/?a?n ?rand/;[1]1905年2月2日 - 1982年3月6日)は、ロシア系アメリカ人小説家思想家[2]劇作家映画脚本家である。本名アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム(: Алиса Зиновьевна Розенбаум)。二冊のベストセラー小説『水源』、『肩をすくめるアトラス』で知られる。また自ら「客観主義」と名付けた思想体系の創出者としても知られる。

ロシアで生まれ、同国で教育を受けた後、1926年にアメリカ合衆国に移住。ハリウッドで映画脚本家として働き、劇作品の一つは1935年から1936年までブロードウェイで上演された。初期の小説2作品は当初それほど評判にならなかったが、小説『水源』(1943年)で名声を得た。

1957年には代表作の小説『肩をすくめるアトラス』を出版。その後は自らの思想を伝播するノンフィクションに転向した。自ら雑誌を刊行し、いくつかのエッセー集を発表し、1982年に死去した。ランドは理性を知識を得る唯一の手段として擁護し、信仰や宗教を拒絶した。合理的かつ倫理的なエゴイズムを支持し、倫理的利他主義を拒絶した。政治においては「実力への着手」(Initiation of Force、自分の側からの強制力の行使)を非難し[3]集産主義および国家主義に反対した。また、無政府主義にも反対した。最小国家主義および自由放任資本主義を、個人の権利を守る唯一の社会制度と信じ、支持した。芸術においてはロマン主義的写実主義を唱道した。一部のアリストテレス派哲学者や古典的自由主義を除き、殆ど全ての思想家及び思想的伝統を辛辣に批判した[4]

文芸評論の世界では、ランドの虚構は殆ど認められていない[5]。アカデミズムの世界では、ランドの思想はほぼ無視または否認されている。客観主義運動は、ランドの思想を一般および学界に広めることを目指す運動である[6]リバタリアンやアメリカの保守主義において、ランドは大きな影響力を保ち続けている[7]
生涯
生い立ち

ランドは1905年2月2日にサンクトペテルブルクに住む中産階級の一家の、3人姉妹の長女として生まれた。父はジノヴィ・ザハーロヴィチ・ローゼンバウム、母はアンナ・ボリソヴナ(旧姓カプラン)で、2人はほぼ非順守派のユダヤ人であった。父ジノヴィ・ローゼンバウムは薬剤師として成功し、薬局一店舗とこの薬局が入るビルを所有するに至った[8]。ランドは学校には退屈し、彼女自身によれば8歳の時には映画の脚本を書き始め、10歳の時には小説を書き始めた[9]。ランドが12歳の時、二月革命(1917年)が起きた。この時はニコライ2世よりもアレクサンドル・ケレンスキーに好感を持っていた。

その後の十月革命と、ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキの独裁確立により、ランドの一家はそれまでの快適な生活を破壊された。父の薬局事業は没収され、一家は転居を強制された。ランド一家はロシア内戦白軍の支配下にあったクリミアに逃れた。ランドの回想によれば、ランドは高校時代に無神論の立場を取ることを決め、理性を他のあらゆる人間的価値の上位に置くことに決めた。ランドが16歳でクリミアの高校を卒業した後、一家はペトログラード(旧サンクトペテルブルク)に戻った。ペトログラードでの生活条件はひどく、時に飢餓寸前の状態に陥った[10][11]ランドはペトログラード国立大学で3ヶ年のプログラムを修了した。

ロシア革命後、大学が女性に解放され、ランドはペトログラード大学に入学した最初の女性の一人になった[12]。ランドは、この大学の社会教育学部で歴史を専攻した[13]。大学ではアリストテレスおよびプラトンの著作に出会った[14]。アリストテレスには最大の影響を、プラトンには最大の反面教師としての影響を、それぞれ受けることになった[15]。アリストテレスとプラトンに次いでランドが熱心に著作を研究した思想家は、フリードリヒ・ニーチェであった[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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