アインザッツグルッペン
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「特別行動部隊」はこの項目へ転送されています。旧称が「特別行動部」であるアメリカ合衆国のCIAの「特別行動センター」とは異なります。
アインザッツグルッペン隊員が子供を守ろうとするユダヤ人女性を射殺する瞬間(1942年、ウクライナイヴァンゴロド

アインザッツグルッペン(:Einsatzgruppen)は、ドイツ保安警察 (SiPo) と保安局 (SD) がドイツ国防軍の前線の後方で「敵性分子」(特にユダヤ人)を銃殺するために組織した部隊である[1]

アインザッツグルッペンは複数表記で、単数形はアインザッツグルッペ(Einsatzgruppe)となり、直訳すると「展開集団」である。正式名称は「保安警察及び保安局のアインザッツグルッペン」(Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des Sicherheitsdienstes) という[2][3]。本稿では「アインザッツグルッペン」と表記するが、意訳で「行動部隊[4][5]」や「特別行動部隊[6]」、「特別任務部隊」という表記もよく見られる[3][7]。それ以外には「移動虐殺(もしくは殺人・抹殺・殺戮)部隊」といった意訳も見られる[3][8]ソ連民間人の大量虐殺 1941年
概要

ナチス党政権下のドイツの保安警察及びSD長官(のち国家保安本部(RSHA)長官)ラインハルト・ハイドリヒにより創設された。アンシュルス(オーストリア併合)ズデーテンラント併合、チェコの保護領下(ベーメン・メーレン保護領)、ポーランド侵攻独ソ戦とドイツが東部へ領土を拡大するたびに保安警察、もしくは国家保安本部により組織された。

ポーランド侵攻以前のアインザッツグルッペンの銃殺活動は主に知識人聖職者政治家などドイツの支配に不都合となる指導層を対象とした[9]。対して独ソ戦におけるアインザッツグルッペンは、ユダヤ人ロマ共産党幹部などを対象に銃殺を行った[1][9]

都市が陥落するとアインザッツグルッペンはその都市の「敵性分子」を集め、森や野原に追いたて、そこで銃殺して遺体を壕に埋めた[1][9]。銃殺だけではなく、ガス・トラックによる虐殺も行われた[1][10]。アインザッツグルッペンは1943年に解散された[1]

アインザッツグルッペンの虐殺行動は一面ではパルチザン(民間人に成り済まして攻撃を行うゲリラ)掃討の意味も持っていたが、各隊隊長たちの殺害報告書には「ユダヤ人」などと人種の項目も独立して記載されているため、単なるゲリラ掃討部隊とは認められていない。ホロコーストの一翼を為すものであったとする見方が大勢である。またパルチザンと何の関係もない民間人も大勢「パルチザン」ないし「共産主義者」と勝手な認定を受けて虐殺されていった。
歴史
第二次世界大戦前

1938年のアンシュルス(オーストリア併合)前から保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将は、オーストリアにスパイを放ち、併合後に逮捕すべき反独的人物のリストを作っていた[11]。このスパイ部隊をアインザッツコマンド(Einsatzkommando、出動分遣隊)と呼んだのが最初である。

1938年9月のズデーテンラント併合、1939年3月のチェコスロバキア保護国化の際にも規模を拡大して再組織された。ズデーテンラントでの組織の際にアインザッツコマンドの司令部としてアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)が初めて置かれることとなった。パルミリ近くの森で処刑されるポーランド人女性たち
ポーランド戦1939年10月、ポーランドのレシュノでのアインザッツコマンドによる処刑

対ポーランド戦争に際してもポーランド占領をしやすくするためにアインザッツグルッペンが再度組織された。ハイドリヒは1939年9月21日にアインザッツグルッペンの指揮官たちを前に「ポーランドの指導者層・知識人層は絶滅されるべきである」などと訓示している[12]

ポーランドのアインザッツグルッペンは、1隊・2隊・3隊・4隊・5隊・6隊・「フォン・ヴォイルシュ」隊の7隊により構成され、それぞれの隊の下にアインザッツコマンドが複数ずつ置かれた[13][14]。ポーランド戦の際のアインザッツグルッペンの総員は2700名であった[13]。それぞれ陸軍14軍、陸軍10軍、陸軍8軍、陸軍4軍、陸軍3軍、南方軍集団の進撃を後ろから付いて行って銃殺活動を行った[14]。「フォン・ヴォイルシュ」は軍に付随せず、ドイツとポーランドの国境付近において銃殺活動を行った[14]

ポーランド戦の際にアインザッツグルッペンの銃殺活動の対象にされたのは主に親衛隊情報部(SD)第二局作成の特別捜査リストに記載された教員、聖職者、貴族、叙勲者、退役軍人などのポーランド指導者層、またユダヤ人、ロマなどであった[13]。1939年9月1日から10月25日にかけてドイツ占領下のポーランドでは民間人16,000人以上が殺害されたが、そのうち四割がアインザッツグルッペンによるものとされる[12]

国防軍は新参者の親衛隊が自分たちの占領地域を我が物顔で跋扈しているのを好ましく思わず、親衛隊に圧力をかけるようになった。南方軍集団司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将は「フォン・ヴォイルシュ」の活動をヒトラーに正式に抗議している[11]。また国防軍はハイドリヒが企図していたユダヤ人を都市に集中させる「耕地整理」について民政指導部の設立により行うべきであると主張していたが、ハイドリヒは取り合わず、ワルシャワ陥落直前の1939年9月21日には農村部のユダヤ人を都市部へ集め、都市部にユダヤ人評議会を創設させてユダヤ人を一括管理させるようアインザッツグルッペンの指揮官たちに指示を出している[13][15][16]


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