アイルランド市民軍
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アイルランド市民軍
Arm Cathartha na hEireann


イースター蜂起

アイルランド独立戦争
に参加
「我々は王でも皇帝でもなくアイルランドに仕える」と書かれた旗の下、本拠地のリバティ・ホールの外にいるアイルランド市民軍の一団
活動期間1913?1947
活動目的アイルランド共和主義
社会主義
マルクス主義
反帝国主義
指導者

ジェームズ・ラーキン

ジャック・ホワイト

マイケル・マリン

ジェームズ・コノリー

クリストファー・「キット」・プール

コンスタンツ・マルキエビッチ

本部ダブリン、リバティ・ホール
関連勢力

アイルランド義勇軍

アイルランド共和国軍

敵対勢力 大英帝国
イギリス陸軍
王立アイルランド警察隊
ダブリンメトロポリタン警察
実業家
戦闘

ダブリン・ロックアウト

イースター蜂起

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アイルランド市民軍メンバー。左から2人目がキット・プール。

アイルランド市民軍(アイルランドしみんぐん、アイルランド語: Arm Cathartha na hEireann、英語: The Irish Citizen Army、略称:ICA)は、ダブリンに設立された、アイルランド運送・一般労働組合 (ITGWU) による訓練を受けた義勇兵からなる小規模な民兵組織である。労働組合の義勇兵を訓練し、ダブリン首都警察から労働者のデモ活動を防衛することを目的に編成された。 ジェームズ・ラーキン、 ジェームズ・コノリー、ジャック・ホワイトによって1913年11月23日に結成された[1]ショーン・オケーシーコンスタンツ・マルキエビッチ、フランシス・シーヒー・スケッフィントン、パトリック・トーマス・ダリー、キット・プールなどが主要構成員として参加している。1914年にはその後、よく知られるようになる星の鋤のしるしがついた旗を採用した。1916年に、イギリスアイルランド支配の終結を目指した武装蜂起イースター蜂起に参加した[2]

イースター蜂起の後、ジェームズ・コノリーの死亡やジェームズ・ラーキンの離反に続いて、 アイルランド独立戦争中にアイルランド共和軍の物質的支援に徹し直接的な関与を行わないことを選択し、主に自ら第一線を退いた。1919年7月、ICAは市民軍と共和軍への同時加入を禁止する宣言により、軍事的非活発化も相まって、ICAの隊員は相次いで離脱した。アイルランド内戦中に発した「中立」宣言はさらなる隊員の離脱を招いた[3]

1920年から1934年までの間は軍事的有用性を失っていたICAだが、新設の共和党議会によって再建が計画された。しかし、共和党議会はイデオロギー論争で分割・崩壊し、同様にICAも解散した[3]
ダブリン・ロックアウトと創設アイルランド市民軍創設者でリーダーであるジェームズ・ラーキン。1919年にニューヨーク州で「犯罪的アナーキズム」により逮捕された際のマグショットである。

アイルランド市民軍は、1913年に行われたアイルランド運送・一般労働組合 (ITGWU) の大規模ストライキであるダブリン・ロックアウト(英語版)によって生まれた。このストライキによりダブリンの大部分で経済的な行き詰まりが発生した。ダブリン・ロックアウトにおいて特筆されるのは、ストライキ参加者とダブリン首都警察の間で行われた熾烈な暴動である。とくに8月31日のオコンネル通りでの集会では男性2名が撲殺され、約500人の負傷者が発生した。他のストライキ参加者はスト破りにより発砲されたリボルバーの跳弾で致命傷を負った[4]

こうした暴力により、ダブリン・ロックアウトの主導者の1人で労働運動家であったジェームズ・ラーキンは警察から身を守るための民兵組織の創設が必要であると考えるようになった。ジェームズ・ラーキン、 ジェームズ・コノリー、ジャック・ホワイトらによって1913年11月23日にアイルランド市民軍が結成された[1]
再編リバティ・ホールの外でアイルランド市民軍と一緒にいるジェームズ・ラーキン。

1914年、完全にアイルランド市民軍が再編された[5]。 同年3月、警察はICAのデモに攻撃を加え、デモの指導者であるジャック・ホワイトを逮捕した。劇作家のショーン・オケーシーはICAをより正式な形式に則った組織にする必要があると考え、「アイルランドの道徳的・物質的所有権は、アイルランド国民の権利として与えられたものである」 「全アイルランド市民の名の下では、すべての出生財産や信仰は不問とする」という文から述べられる規約を作成した[5]。4月にはアイルランド市民軍の旗としてのちに非常によく知られるようになる、鋤と星の旗がお披露目された[6]

アイルランド市民軍はマウザーライフルで武装していたが、これはアイルランド義勇軍がドイツから購入し、ホウス(英語版)へ密輸したものである。 アイルランド市民軍は、男女両者に同様の会員資格を提供し武器訓練を行った、初の準軍事組織であった。軍の本部はITGWU本部のあるリバティ・ホールに設置されたため、隊員はもっぱらダブリン基地に集中していたが、その後ジェームズ・コノリーによってケリー県トラリーキラーニーに支部が設置された。1914年9月9日、トム・クラークはダブリン内全ての分離主義者集団と会合を開き、ドイツのアイルランド侵攻を支援し、警察による義勇軍の武装解除を防ぐように呼びかけた[7]。リアム・オブライエンと、前者の一斉行動は総じて非現実的で不可能であると考えた軍事指揮官マイケル・マリンは、ICAの将校たちとの間で知的な不一致による論争を引き起こした。オブライエンはダブリンにある兵力が「街に囚われる」ことのないような戦略を推進したかったが、それに対しマリンは、全戦略はダブリン城とその周辺を中枢目標として重視していると反駁した。 ダブリン城とその背後の兵舎には駐屯部隊の残骸しかなく、名ばかりの部隊にすら占領されうる状況であることを、マリンらはほとんど知らなかった[7]

1914年10月、ジェームズ・ラーキンはジェームズ・コノリー指揮下のアイルランド市民軍を残してアイルランドを去り、アメリカへ向かった。ICAが就労拒否をする労働者の自己防衛のための非常備軍に過ぎなかった一方で、コノリーはICAをアイルランド社会主義共和国建国に特化した革命組織にしようと考えた。青年時代にイギリス陸軍に所属していたコノリーは軍略と軍事規律について造詣が深かった。初期の構成員として評議会の秘書を務めるショーン・オケーシーが他に挙げられる。オケーシーは、義勇軍との綿密な関係を築いていたコンスタンツ・マルキエビッチはICAにとって「有害」であるとし、排斥を試みた。フランシス・シーヒー・スケッフィントンとオケーシーの二人は、コノリーが過激派国粋主義団体アイルランド共和同胞団(英語版)(IRB)に感化されたことが明らかになると、アイルランド市民軍から離脱した。アイルランド市民軍は極めて貧迫していた。アイルランド共和同胞団のフィニアンで著名なアイルランド系アメリカ人であるジョン・デヴォイは、アイルランドの国土で国軍を持つことは、ゲール語連盟の創設以来、最も重要な兆候であると確信していた[8]マルクス社会主義者かつアイルランド共和主義者のジェームズ・コノリーは、暴力による政治変革の達成はフェニアンの伝統に基づき正当であると考えていた。ICAは、200?300人にまで縮小するという人数減少や統制の乱れの憂き目に遭った[9]
イースター蜂起1914年、イースター蜂起の際にかかげられた星の鋤の旗。

1916年4月24日木曜日、アイルランド市民軍の隊員220人(28人は女性)がはるかに数多くのアイルランド義勇軍と共にイースター蜂起に参加した。 隊員らはダブリンの主要幹線であるオコンネル通り(旧称サックヴィル通り)にある中央郵便局 (GPO) の占拠に加わった。


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