(アイユーブ朝の旗)
アイユーブ朝の最大支配領域(1188年)
公用語アラビア語
クルド語[1][2]
宗教イスラム教スンナ派
首都カイロ(1171年 - 1174年)
ダマスクス(1174年 - 1218年)
カイロ(1218年 - 1250年)
スルターン
1171年 - 1193年サラーフッディーン
1202年 - 1218年アル=アーディル
1218年 - 1238年アル=カーミル
1240年 - 1249年サーリフ
1249年 - 1250年トゥーラーン・シャー
面積
1190年推定[3]2,000,000km²
1200年推定[4]1,700,000km²
人口
12世紀推定7,200,000人
変遷
成立1169年
エルサレムの占領1187年
サラディンが死亡1193年
フリードリヒ2世にエルサレムを譲渡1229年
第7回十字軍1248年
大アイユーブ朝滅亡1250年
通貨ディナール、ディルハム
現在 エジプト
リビア
チュニジア
スーダン
ヨルダン
イスラエル
パレスチナ
レバノン
トルコ
シリア
サウジアラビア
イエメン
アイユーブ朝(アイユーブちょう、アラビア語: ?????????、クルド語:??????? ???????? )は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配したスンナ派のイスラーム王朝である[5]。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。
1169年、エジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立した[5][6]。サラディンはアッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている[7]。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、ダマスカス、アレッポ、ディヤルバクルには半独立の地方政権が成立した[5]。アル=アーディル、アル=カーミル、アッ=サーリフら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らはカイロで政務を執った[8]。1250年にマムルーク(軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出したモンゴル帝国とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。 12世紀前半、アルメニアに居住していたクルド人のシャージーはナジムッディーン・アイユーブとシールクーフを連れてイラクに移住し、セルジューク朝の下でバグダードの軍事長官を務めるビフルーズに仕官した[9]。シャージーはティクリートの城主に任じられ、彼の死後はアイユーブがティクリートの城主の地位を継承した[9]。 1131年にセルジューク朝のスルターン・マフムード2世が没した後に王位を巡る内戦が起こり、この戦争の中でアイユーブは敗走するモースルの領主イマードゥッディーン・ザンギーに助けを与えた[10]。1137年/38年にアイユーブはビフルーズの命令でティクリートを追われるが、城を失った日の夜にアイユーブの妻は男児を生み、生まれた子供はユースフ(後のサラディン)と名付けられた[11]。ティクリートを失ったアイユーブは弟のシールクーフとともにモースルのザンギーの元に逃れ、ザンギーから迎え入れられた。アイユーブはシールクーフとともにザンギー配下の軍団の司令官に命じられ、1139年にはバールベックの知事に任命された。 1146年にザンギーが没した後にバールベックはセルジューク朝のダマスカス総督の攻撃を受け、アイユーブは現金・領地と引き換えに降伏した。1152年に14歳になったサラディンはアイユーブの元を離れ、ザンギーの子でアレッポを支配するヌールッディーン・マフムードに仕官する[12]。サラディンはヌールッディーンからイクター(封土)を与えられ、彼に近侍した[13]。ヌールッディーンがダマスカスへの進出を試みたとき、ダマスカスに居住していたアイユーブはヌールッディーンに仕えていたシールクーフと連絡を取りあい、1154年にヌールッディーンはダマスカスの無血開城に成功した[14]。ダマスカスの開城後、アイユーブはヌールッディーンに協力したことを評価されてイクターとダマスカスの支配権を与えられ、引き続きダマスカスに留まった[15]。 1163年、エジプトを支配するシーア派の国家ファーティマ朝の宰相シャーワルは政敵のディルガームとの戦いを有利に進めるためにザンギー朝に援助を求めた[16][17]。翌1164年4月にヌールッディーンはシールクーフを司令官とする遠征軍を派遣し、遠征軍の幕僚にサラディンが付けられた。シールクーフはビルベイス
歴史
セルジューク朝、ザンギー朝時代
サラディンによる独立政権の樹立1165年当時の中東の勢力図。ファーティマ朝(Fatimid Caliphate)が支配するエジプトに派遣されたサラディンはエルサレム王国(Kingdom of Jerusalem)と数度交戦した。
1167年の和議に際してシャーワルはエルサレム王国に貢納と引き換えに援助の約束を取り付けるが、ファーティマ朝のカリフ・アーディドや民衆はシャーワルの方針に不満を抱き、シャーワルを排除する計画が巡らされた[20][21]。さらにエジプトは十字軍の攻撃を受け、フスタートが十字軍によって制圧されることを恐れたシャーワルはフスタートに火を放ち、フスタートは焦土となった[22][23]。シャーワルと敵対する派閥の人間はヌールッディーンに支援を求めた。1168年12月にシールクーフとサラディンはアレッポを発って3度目のエジプト遠征を行い、シールクーフの進軍を知ったアモーリー1世はパレスチナに撤退する[24]。