アイマン・ザワーヒリー
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アイマン・ムハンマド・ラビーウ・アッ=ザワーヒリー
???? ???? ???? ????????
2001年 撮影
通称アイマン・ザワーヒリー
生年 (1951-06-19) 1951年6月19日
生地 エジプトカイロギーザ説あり[1]
没年 (2022-07-31) 2022年7月31日(71歳没)
没地 アフガニスタン カーブル
思想ジハード主義
活動911テロ他多数
所属アルカーイダ
母校カイロ大学
信教イスラム教スンナ派
影響を受けたものサイイド・クトゥブ
脚注ジハード団の作戦・軍事指導者であった[1]
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アイマン・ムハンマド・ラビーウ・アッ=ザワーヒリー (アラビア語: ???? ???? ???? ????????‎ アラビア語エジプト方言発音: [??ajman ma??ammad ???bi?? ez.z???w?h?i], 英:Ayman al-Zawahiri, 1951年6月19日 - 2022年7月31日[2])は、エジプト出身の医師、神学者、テロリスト 。2011年6月から2022年7月に死亡するまでテロ組織アルカーイダの指導者であった人物である[3]ウサーマ・ビン・ラーディン死後、その後継者となり、それ以前はアジア、アフリカ、北米、ヨーロッパでの攻撃を指揮するイスラム主義組織の幹部であった。2012年には、イスラム教徒に対して、イスラム圏で欧米人を誘拐するよう呼びかけた[4]

9月11日の同時多発テロの後、米国務省はアイマン・ザワーヒリーの逮捕につながる情報または諜報活動に対して2500万米ドルの報奨金を提供した[5] [6]。彼は1999年、国連のアルカーイダ制裁委員会により、アルカーイダのメンバーとして世界的な制裁下に置かれた[7]

2022年7月31日、ザワーヒリーはカブールアメリカ軍の無人機攻撃による空爆で殺害された[8][9]。         
プロフィール
生い立ち

1951年に、カイロ郊外のマアーディの中流家族に生まれた。父は薬学化学の大学教授で一族で医家を成し、母は政治的に有力な一族の出であった。また祖父はアズハル大学の著名なイマームであった。ザワーヒリーは成績優秀で詩歌を好み、争いを好まない穏やかな性格であった。ザワーヒリーの両親も敬虔ではあるが狂信的なムスリムではなかった。サイイド・クトゥブの思想的影響が広がる中で、叔父の影響を受け、政治やイスラーム主義に関心が向い、14歳でムスリム同胞団に入団。翌年、クトゥブがエジプト政府に処刑されたためザワーヒリーらは地下活動に移った。当時、ザワーヒリーは「クトゥブ主義を行動に」とスローガンを記している。カイロ大学医学部に進み心理学薬学、そして外科医学を専攻し、1974年に卒業するとエジプト陸軍で3年間外科医を務め、その後、実家の傍に開業した。1978年には修士号も取得、眼科医として卓越した技術を持つ。その年、カイロ大学で哲学を専攻していた女性と結婚した。二人は1男5女をもうけた。その頃にはザワーヒリーらの活動はジハード団に統合されていった。
ジハード団

ザワーヒリーはジハード団でリクルートを担当、軍の将校を引き入れ武器を集めようと奔走した。1981年にジハード団によってアンワル・アッ=サーダート大統領殺害事件が起こるとザワーヒリーは逮捕された。この時、拷問を受けたとされる。サーダート大統領殺害の関係を立証されず、ザワーヒリーは違法武器所有罪で禁錮3年の刑を受ける。
アルカーイダ

出所後、ハッジサウジアラビアに向かい、ジッダに留まり1年間医師として勤めた。次いでパキスタンペシャーワルに行き赤新月社で難民の治療に従事した。またジハード団の再建に動いた。ペシャーワルではアブドゥッラー・アッザームが組織するマクタブ・アル=ヒダマト(MAK)に合流、ウサーマ・ビン・ラーディンに会ったのもこの時である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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