アイヌ料理(アイヌりょうり)は、アイヌ民族の伝統的な料理。ここではアイヌの食文化全般を解説する。 アイヌ民族の食文化は漁撈や狩猟で得られた鮭や鹿、山野の採集で得られたオオウバユリの鱗茎やドングリ、山菜、畑で栽培された雑穀やジャガイモ[1][2]などを素材とする。特徴としては、油脂をふんだんに使った味付けが挙げられる[3][4]。 調味料は塩のほか、魚や獣の脂肪(タラ、イワシ、ニシン、サメ、アザラシ、エゾシカ、ヒグマなどからとる)を用いた[5]。近世以降は味噌も使用された[6]。また、コンブや動物の骨、魚の焼き干しを使って出汁をとる文化をもっていた[7]。香辛料としては、ギョウジャニンニクやキハダの実、タネツケバナを利用した[4]。 狩猟は盛夏?晩夏を除いて1年の大半の時期に行われ、ユ?(yuk エゾシカ)、キムンカムイ(kimun kamuy ヒグマ)、イソポカムイ(isopo kamuy ウサギ)、モユ?(moyuk エゾタヌキ)、チロンヌ??(cironnup キタキツネ)、ホイヌ(hoinu テン)、ルオ??(ruop シマリス)などの獣、フミルイ(humiruy エゾライチョウ)、クスイェ??(kusuyep キジバト)、コペチャ(kopeca マガモ)、パラケウ(parkew カケス)、アマメチリ(amameciri スズメ)などの鳥類を狩った[8]。 このうちではシカが最も主要な獲物であった[9]。往時の北海道には想像を絶するほどの数のシカが生息しており[note 1]、「鍋を火にかけてから狩りに行く」という言葉もあったほど簡単に得ることが出来た[10]。クマやタヌキなどの「狩猟の対象となる動物」をアイヌは「カムイ(神)が人間のために毛皮と肉を土産に持ち、この世に現れた姿」と解釈していたが、シカに関しては「天空にユ?(鹿)を司る神『ユ?アッテカムイ』(yuk atte kamuy)がいて、大きな袋から人間のために投げ下ろしている」と理解し、それ自体に神格は存在しないものとしていた。あまりの数の多さゆえ、ありがたみが薄れたものらしい[11][note 2]。北海道東部・本別町、足寄町、白糠町の境にまたがる標高745mのウコタキヌプリは土地のアイヌからユ?ランケヌプリ(鹿が下る山)と呼ばれ、山上で雷鳴が轟く際は天から神が鹿の入った袋を投げおろしているとの伝承があった。周辺の住民は、この山にイナウを捧げて猟運を祈った[12]。イナウで飾られたヒグマの頭骨。人間に狩られることで毛皮と肉の恵みを齎すヒグマは、キムンカムイ(山野の神)として尊崇された。神が天界で蘇ることを願い、鼻先の部分は皮をはぎ取らない[13]。 クマは春先に冬眠から覚めたところを狙い、こもる穴の入り口を塞いでから槍で突く。夏場には、矢に毒を塗った仕掛け弓「アマッポ」を獣道に仕掛けて捕らえる。仕掛け弓から発射される矢にはス?ク(surku トリカブトの根)の毒が塗られているが、矢が刺さった箇所の肉を握りこぶしの量ほど抉り取って捨てれば、他は食べることができた[14]。アイヌがキムンカムイ(山の神)として尊崇する熊の肉は、他の獣肉とは別格とされた。アイヌ語で肉は「カ?」だが、熊肉に限っては「カムイハル」(神の食べ物)と呼ぶ。調理の際は「女に調理させない」「他の獣肉と一緒に煮ない」「煮る際、鍋に蓋をしない」などの戒律が守られる。中華料理の「熊の掌」のように、ウレハル(足裏の肉)は特に珍味とされた[15]。 シカは毒矢猟の外、崖から追い落として捕らえることも行われた[16]。 海に丸木舟を漕ぎ出し、離頭銛でタンヌ??(tannup イルカ)、エタ?ペ(etaspe トド)、トゥカ?(tukar アザラシ)、ウネウ(unew オットセイ)などの海獣やシリカ??(sirkap メカジキ)、キナポ(kinapo マンボウ)、サメ(same)などの大型魚類を捕らえ、網や釣竿でヘロキ(heroki ニシン)、サマンペ(samampe カレイ)、イワシ(iwasi)、エレク?(erekus タラ)、チマカニ(cimakani カジカ)、コマイ(komay)、トキカ?(tokikar チカ)、ウッタ??(uttap カスベ)などの小型魚類をとった[8]。アザラシ。樺太アイヌはその脂肪を料理に多用した。 巨大なフンペ(humpe 鯨)は丸木舟や銛で仕留めることが難しいため、海岸に漂着する「寄り鯨」は大変な自然の恵みだった。白老から日高支庁にかけての地域には、盲目の老婆が寄り鯨を見つけて村人と喜びつつ分け合う様を表現した寸劇「鯨踊り」が伝わる[17] ほか、北海道各地に伝説がある。 上記の例を見ても、寄り鯨の恵みが窺える。ただ、波の静かな噴火湾では古くからトリカブトの毒を塗った銛による捕鯨が行われていた[20]。 沿岸部のコタン(kotan)は海の恵みで潤っていたが、やがて場所請負制によって住民は和人商人が経営する漁場に隷属されることとなり、困窮の道を歩む例が多かった[21][22]。 川漁では釣り、網漁、「ウライ」(uray 簗)、」「ラオマ??」(raomap 筌)などの方法でカムイチェ??(kamuycep サケ)、イチャニウ(icaniw マス)、スプン(supun ウグイ)、トゥクシ?(tuksis アメマス)、チライ(ciray イトウ)、ユペ(yupe チョウザメ)、スサ?(susam シシャモ)、イチャンコッ(icankot ヤマメ)、チポロケソ(ciporkeso イワナ)、ランパラ(rampara フナ)などの魚類を捕獲した[8]。
概説
食材の調達
狩猟ユ?(エゾシカ)
漁撈クマ(kuma 乾し棚)で干物を作る
沖に横たわる大きな岩を「寄り鯨」だと思い込み、焚火をしながら浜に打ち上げられるのを待っていた。しかし一向に打ち上げられるはずも無いまま薪も乏しくなり、大切なイタンキ(itanki 椀)までも火にくべてしまい、やがてそのまま全員が餓死してしまった。(室蘭市イタンキ浜の地名伝承[18])
砦に立てこもった敵をおびき出そうとして、一計を思いついた。海辺に砂を盛り上げ、大きな鯨の形を作っておく。それのあちこちに海藻や魚を差し込んでおけば、鳥が寄り付いて騒ぎ、まるで「寄り鯨」が打ち上げられたよう。案の定、敵は騙されて砦から飛び出す。そこを迷わず討ち取った。(浦幌町厚内の砂鯨伝説[19])