アイヌ人
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この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年11月)

アイヌ2007年のアイヌの結婚式
総人口
日本:13,118人(北海道内における2017年調査)[1](研究者の間でも「誰をアイヌ民族として対象とするかに課題がある」ことで、日本国内の正確な数値は不明)
ロシア:105人(2018年12月)
居住地域
日本北海道北方領土千島列島など、東京
ロシアカムチャッカ地方サハリン州千島列島樺太カムチャッカ半島
言語
日本語アイヌ語ロシア語
宗教
仏教 46.2 %
アイヌ固有の信仰 2.9 %
神道 2.4 %
信仰なし 34.5 %
(2008年北海道アイヌ民族生活実態調査報告書[2]
関連する民族
縄文人大和民族琉球民族ウィルタニブフアメリカ州の先住民族イテリメン族チュクチ族

アイヌの旗(英語版)(砂澤ビッキ作)

アイヌ(アイヌ語: Aynu / アィヌ、ロシア語: Айны)は、北は樺太から北東の千島列島カムチャツカ(勘察加)半島北海道を経て、南は本州北部にまたがる地域に居住していた民族である[3]。現在は日本国内に大部分が居住している。2019年5月に施行された「アイヌ施策推進法」では「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族である」と明記されている。
概要

アイヌは永くオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた[4]。すなわち生業から得られる毛皮海産物などをもって、黒竜江下流域や沿海州との山丹交易を仲介したほか、カムチャツカ半島南部の先住民族のイテリメン族と交易を行っていた。また、津軽海峡を隔てた日本列島の和人とも交易を行いなどの食料漆器木綿鉄器などを入手していた[4]

アイヌは、元来は狩猟採集民族であり、文字を持たず、物々交換による交易を行う。独自の文化を有する[5]母語アイヌ語。独特の文様を多用する文化を持ち、織物や服装にも独特の文様を入れる[注 1](かつては、身体にも刺青を入れた)。家(住居)(アイヌ語で「チセ」)は、(昭和期以降の学者らが)「掘立柱建物」と呼ぶ建築様式である。1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌの男性。

アイヌは日本とロシアに居住する「少数民族[6]」であり、現在の日本国内では日本国籍を持つ人の民族についての調査はされていない[7]ため、少なくとも北海道首都圏に幅広く居住していることくらいが漠然と分かっているだけとなっている。研究者らの間でさえも、「だれがアイヌ民族か」「だれをアイヌ民族として対象とするか」で議論があり[8]、正確な居住地域や正確な数などはよくわかっていない。

2007年には国際連合において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されるなど、世界的に、先住民族への配慮を求める要請が高まってきた[9]。(そうした世界的な要請も視野に入れつつ)翌2008年(平成20年)には日本の両院の本会議においても「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択された[9]。さらに日本の国会は、2019年(平成31年)4月19日に「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(アイヌ施策推進法)」を制定し、法律として初めて「先住民族」と明記された[10][11]
呼称
アイヌ1899年鳥居龍蔵が撮影した千島アイヌの一族樺太東海岸のアイという集落の長・バフンケ(日本語名・木村愛吉 1855 - 1919?)。ブロニスワフ・ピウスツキにより撮影された[12]シャクシャイン時代の北海道

アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない[注 2]。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族和人、シサム・シャモ[注 3])とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけての時期とされている。

ウェンペ

アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使っていた。悪い同胞を彼らはアイヌと言わず、ウェンペ(悪いやつ)と呼んだ[13]

地域差

地域によって文化や集団意識が異なり、北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「メナシクル」と称し、同様に太平洋岸西部のアイヌは「シュムクル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」などと呼ばれるなど居住地域ごとに互いを呼びわけていた。

時代別の呼ばれ方

大和民族(和人)は、中央政権から見て開拓されていない東方や北方に住む人々を古代中国の呼び名より「蝦夷」、幕末期には「土人(その当時は純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉であったが、大正時代以降には次第に侮蔑感とともに使われるようになったとされる[14])」と呼称し、次第にこれが渡嶋から北の人々を指す言葉となり「アイノ」(=アイヌ)と同一して呼ばれるようになる。その他にも一般的には「アイヌ人」「アイヌの人々」「アイヌ民族」など様々な呼び名があり、歴史的文書にも色々な言い方がされている。

アイヌの民族形成の過程を「縄文文化と続縄文文化のプレアイヌ」→「擦文文化のプロトアイヌ」→「近世アイヌのアイヌ」→「近代以降のアイノイド」と変化していくと1972 年「典型的なアイヌ文化」(埴原和郎ほか)で規定する枠組みと民族集団形成のモデルが提示された[15]
ウタリ

ウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間である[16]が、長年の差別[注 4]の結果、「アイヌ」という言葉に忌避感を持つ人が多いことから、アイヌを指す言葉として用いられることがあり、1961年から2006年にかけ、行政機関の用語としても使用されていた。
蝦夷詳細は「蝦夷」を参照

朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあったが、アイヌと古代の蝦夷との関連については未だに定説はなく、日本史学においては一応区別して考えられている。北海道、樺太は遅くとも平安時代末に和人の定着が見られるまでは、多種多様な種族部族のアイヌが分散、集落での対立が多く、統一した民族ではなかった。また、文字が無く、どのような統治状態なのか全く分かっていない。

東北地方の蝦夷(えみし)は和人により古代から征討の対象とされ(蝦夷征討)、平安時代の民夷融和政策により、平安時代後期までには東北地方北端まで平定され和人と同化した[22]

中世以降、アイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた[23]

また、黒竜江(アムール川)下流域や樺太に居住する他の諸民族から、樺太アイヌは骨嵬(クギ)などと呼ばれていた[24]
歴史「アイヌの歴史」および「アイヌ史の時代区分」を参照神社のアイヌ

アイヌは、人類学的には日本列島の北海道縄文人と近い。アイヌの人々のもつ形質や遺伝的特徴は、縄文時代にまでさかのぼるものがある一方で、オホーツク文化の強い影響もある[23]本州以南で農耕文化の弥生時代が始まったころ、北海道では狩猟採集生活様式が継続する続縄文文化の生活様式が営まれていた。大和朝廷による記録として、日本書紀には阿倍比羅夫齶田/飽田(秋田)・渟代(能代)・津軽の蝦夷を平定し朝貢を受けたこと、渡嶋(現在の北海道と考えられる)へ渡った阿倍比羅夫が当地の蝦夷の要請を受けて、蝦夷と軍事的緊張状態にあった「粛慎」(オホーツク人とする説があるが詳細は不明)を征討したという記事が見られる。7世紀以降東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られる。移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている[25]。この頃より続縄文文化が変化して擦文土器に代表される擦文文化が始まっている[23]。古代の文書に記された「蝦夷」にアイヌが含まれていたかどうかには議論がある[23]が、これら擦文文化やオホーツク文化は、アイヌ文化の原型が見られるものである[23]

擦文時代には加工具、農耕具、狩猟具、武器、武具、装身具、生活用具として続縄文時代よりさらに多くの鉄器が普及し、石器の使用は減少していった[26]。擦文時代の遺跡からは鍛冶や精錬の遺構がいくつか発見されているが、道南を除きその数は少なくこれらの鉄製品、あるいは半製品は主に本州の東北地方から移入されたものとみられる[27]。鉄器の使用は擦文時代を通じて拡大していった。擦文時代の後期になると擦文人の経済力の拡大を背景に[28]、和人との交易により大量に移入された鉄鍋漆器が使用されるようになり、それまで自製していた土器[29]も次第に作られなくなっていった。この擦文土器の終焉をもってアイヌ文化期へ移行したものと区分されている。ただし内耳鉄鍋を模倣した内耳土鍋は北海道で15世紀頃まで用いられており[30]、また北千島では18世紀、あるいは19世紀頃まで土器が使用されていたと考えられている[31][32]など、土器の使用が短期間にアイヌの全地域で消滅したわけではない。


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