アイドル映画
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アイドル映画(アイドルえいが)は、日本においてアイドルを主演とする映画である[1][2][3]。似た言葉に歌謡映画があるが、歌謡映画が流行り歌謡曲モチーフに作られた映画に対して[4]、アイドル映画は例外もあるが、曲をモチーフにはしないケースが多い。曲をモチーフにしない映画を歌謡映画とは呼ばないため、この点では歌謡映画とは異なると言える。近年では「歌謡映画」より「アイドル映画」の方が使用されるケースが多い。

2021年2月16日から4月24日まで、国立映画アーカイブで開催された「1980年代日本映画――試行と新生」では、「日本が経済大国となり、消費社会が到来した1980年代。映画にもさまざまな変化が訪れました。1970年代に始まる大作化の流れが一層顕著になる一方、若年観客向けのアイドル映画やアニメーションがヒットし、新たな企業やプロダクションが映画作りに参加、何よりも新しい才能が続々とデビューを飾りました。映画界のこうした構造変化は、現在にまで影響を及ぼす重大なものだったと言えるでしょう」などと「アイドル映画」がアニメーションとともに1980年代の日本映画を特徴付けるエポックであったと紹介された[5]

評論家の中川右介は、「アイドル映画は、そのアイドルがスクリーンに映えることを唯一最大の目的とする映画である。テーマもストーリーも台詞も音楽も二義的なものになる。いかにアイドルファンを1時間数10分の間、至福の時に浸らせるかに全てがかかり、逆に言えば、そのアイドルのファンでない者にとっては耐えられない作品になるのも覚悟しなくてはならない」等と論じている[6]

映画監督である澤井信一郎は「アイドル映画というのは外側の人が名付けたジャンルでね。撮る方にとっては少女を主役にした青春映画であって、それをたまたまアイドルが演じているだけのことなんです」等と述べている[7][8]高齢者をあまりアイドルとは呼ばないため、ヤングが演じる「アイドル映画」は大抵が青春映画になる。2021年9月に澤井が亡くなったときの追悼記事で澤井を「演技も未熟なアイドルを主演にヒット映画を作り続けた」と論じた記事もあった[9]

おなじく映画監督の金子修介は「僕の子供の頃だと、歌手でもなんでもスターって言ってたんです。それが1970年頃からアイドルっていう言葉が、『あまり熟練してない俳優や、歌手』の言い換えでアイドルっていう風に言われてきて。アイドル映画は一般にはもしかしたら低く見られてるかもしれないって背景にはアイドルっていうのは、何でもやるけど、でもそれは本格的ではないっていう、そういうニュアンスがあるのでは」等と述べている[8]

映画評論家・増當竜也は「アイドル=偶像、映画もまた偶像である以上、すべての映画は観客個々がそれぞれのアイドル性を見出し得る『アイドル映画』だと言えるかもしれない」等と[10]、同じく映画評論家・大高宏雄は「アイドル映画は日本固有の文化。姿を変えて生き残る」等と論じている[11]
概説

「アイドル映画」を説明する場合、1970年代の郷ひろみ西城秀樹野口五郎新御三家森昌子桜田淳子山口百恵花の中三トリオや、それ以前の1960年代グループ・サウンズ吉永小百合橋幸夫舟木一夫西郷輝彦の御三家、加山雄三内藤洋子酒井和歌子関根恵子らの主演映画を含めて説明されることが多く[2][12][13][14][15][16][17]、多くの主演映画がある美空ひばりを「元祖アイドル」と紹介した記事や[18]、増當竜也は「"アイドル映画"は、「高峰秀子の『秀子の応援団長』(1940年)など戦前から存在していた」などと論じ[10]、『映画情報』1985年1月号には「アイドル映画というのは昔のスター映画なんだよ」という記事が見られ[19]、「アイドル映画」を「スター映画」と同義と見なせば[20]、日本初の映画スターといわれる尾上松之助の映画も「アイドル映画」と呼べなくもなく、それでは日本映画草創期から「アイドル映画」は存在したということにもなる。他の映画のジャンルがいつから呼ばれるようになったかはっきりしないのに比べて、「アイドル映画」という言葉自体は、1982年に生まれたものである。「アイドル映画」は1980年代に製作された作品を中心に語られることが多い[2][3][5][17][21]。したがって、「アイドル映画」という、2022年の今日では普通に使われることの多い言葉は、その誕生以降、どのように人口に膾炙したのかはっきりしているため、本項においては特に1980年代以降から今日までの映画を中心に詳述する。
言葉の初出

「アイドルの映画」でも「アイドル主演の映画」でもなく、「アイドル映画」という言葉の初出は、『シナリオ』1982年1月号で、「アイドル映画の流れと『グッドラックLOVE』『すっかり…その気で!』『セーラー服と機関銃』」という記事だった[22]。執筆者は寺脇研であるが「アイドル映画」という言葉を寺脇が考えたのか、『シナリオ』編集部が考えたのかは分からない。文献に見られる最初の使用例はここで、これ以前の使用は見つからない。寺脇は2020年に『昭和アイドル映画の時代』という書を出版しているが、このことについては同書の中で触れず、まえがきで「アイドル映画という言葉が使われるようになったのは、どのあたりだろうか」と書き[12]、とぼけているのか、謙遜しているのか、ちゃんと調べてないのかわからないが、「アイドル映画」という言葉の"生みの親"は寺脇と考えられる。翌月の1982年2月号『映画ジャーナル』で、東映岡田茂社長がインタビューで、薬師丸ひろ子主演・相米慎二監督の角川映画キティ・フィルム製作の『セーラー服と機関銃』を棚ぼたで東映配給し、メガヒットになったことに対して、「率直に言って配収12億円あがったら大成功...営業部は早くから10億円は来るでしょうと言っていた。封切間近に前売りに火がついたものだから12億円は固いですよと言い始めたがそんな程度だった。東宝松岡功社長などもこの種のアイドル映画には10億の大きな壁があると言っておられ、ああそうだろうなと思ってたんですが、まあこれが19億円いっちゃったんだからねえ...」などと述べており[23]、この岡田の話をそのまま受け取れば、東宝の松岡功が言ったのかも知れない。
言葉の生まれた背景

芳賀書店から1974年から1985年まで『シネアルバム』という前年一年間の日本映画の公開作品を紹介した書が刊行されていた。このうち『日本映画1982 '1981年公開映画全集 シネアルバム(82)』は、1981年に公開された日本映画の紹介であるが、1981年の映画状況について、山根貞男がかなり辛辣な意見を述べ、攻撃対象は、薬師丸ひろ子主演の『セーラー服と機関銃』、真田広之主演の『燃える勇者』、松田聖子主演の『野菊の墓』を、石原裕次郎の映画や寅さん映画などと比べて論じたものだが、この書が出版されたのは1982年のいつなのかははっきりしないが、15頁に及ぶ長文の中に一度も「アイドル映画」という言葉が使われていないことから、1982年に入ってもまだ「アイドル映画」という言葉は普及していないことがわかり、また「アイドル映画」という言葉は、たのきんトリオや、薬師丸ひろ子、松田聖子、真田広之といったアイドルを主演とした映画が、1981年の映画界を席捲したことに対して、当時の映画人が揶揄的に名付けた言葉と見られる[22][23]。「アイドル映画」という言葉の誕生の切っ掛けとなった作品名を具体的に挙げれば、たのきんトリオ主演の『青春グラフィティ スニーカーぶる?す』(河崎義祐監督)、『ブルージーンズ メモリー』(河崎義祐監督)、『グッドラックLOVE』(河崎義祐監督)の3本と、薬師丸ひろ子主演の『ねらわれた学園』(大林宣彦監督)と『セーラー服と機関銃』(相米慎二監督)の2本、松田聖子主演『野菊の墓』(澤井信一郎監督)などの1981年公開の映画である。

1982年3月19日付けの『読売新聞』では「82シネマ・ニューウエーブ」と題して相米慎二が特集され、この記事の中でも「アイドル映画」という言葉が使われ、相米自身も「アイドル映画にこだわりはない。映画が商売になっている時代ならわがままが言えるけど、この不幸な時代に映画を撮る以上、ちゃんとスタッフを食わせる保証がなければ映画なんて撮れませんよ。ま、割り切って、いまは"小児科映画"に全力投球ってとこかな。次回作はまた小児科だけど、今度は外科に近い小児科。総合病院風にまだまだ精神科内科も用意してますよ」と今の時代なら問題発言になりそうな表現で「アイドル映画」を説明している[24]
言葉の普及

1982年にはまだ「アイドル映画」という言葉を使った文献はあまり見られないが、1983年には多くの文献で「アイドル映画」という言葉が使用されている。勿論、1982年から1983年にかけて「アイドル映画」が大量に作られたためで、『キネマ旬報』で「アイドル映画」という言葉が使用されたのは、1983年2月下旬号[25]。この記事は、東宝・東映・松竹各社の幹部の対談だが、「アイドル映画」を説明するときは、やはり昔の自社の人気俳優の映画を「アイドル映画」と話し、昔からあったと話している[25]

大林宣彦は1983年7月16日公開の『時をかける少女』で、原田知世に対する演出について『キネマ旬報』1983年7月下旬号で「アイドル映画」という言葉を使っている[26]

『映画情報』1983年7月号では映画評論家・八森稔が、「戦後アイドル映画の変遷 美空ひばりからシブがき隊まで」というタイトルで「アイドル映画」を論じており[14]、この文の中で、美空ひばり・江利チエミ雪村いづみの「三人娘」の初共演映画『ジャンケン娘』の説明に「今ならミュージカルと銘打つところだろうが、当時の呼び名は歌謡映画だった」と書いている[14]。この記事は5頁に及ぶが、"歌謡映画"という言葉の使用は1度だけで、後は「アイドル映画」という言葉で統一しているため、この頃から、「歌謡映画」という言葉も「アイドル映画」という言葉に取って代わりつつあることがわかる。八森は「アイドル映画」について「この夏(1983年)、日本映画では前代未聞のアイドル映画合戦が展開される。たのきんトリオ、松田聖子、薬師丸ひろ子、それにたのきんの弟分であるシブがき隊と薬師丸二世といわれている原田知世が相ついでスクリーンに登場、ヤングのごきげんをとりむすぶ。昨年(1982年)の日本映画の配収ベストテンを見てみると、1位が薬師丸主演の『セーラー服と機関銃』と真田広之主演の『燃える勇者』の2本立てで23億円、2位がマッチこと近藤真彦を主役にした『ハイティーン・ブギ』で18億円となっている。『セーラー服と機関銃』と『ハイティーン・ブギ』は共に質的にも良い作品ではあったが、とにかくアイドル映画は強いのだ。そこで柳の下のどじょうを、2匹どころか5匹も6匹も狙ってのアイドル映画の大合戦となったわけだが、そもそも"アイドル映画"となるものが日本映画に登場したのは、いつのことなのか、これがすこぶる曖昧である。"アイドル"なる言葉が映画界に登場したのは、1964年公開のミシェル・ボワロン監督のフランス映画アイドルを探せ』が最初だったと記憶しているから日本で"アイドル映画"が誕生したのは、それ以降ということになる。その呼び名は違っていても、日本映画には古くから"アイドル映画"は存在した。戦後では、その第1弾が美空ひばり主演の松竹映画『悲しき口笛』(1949年)である」などと論じている[14]

『シナリオ』は1983年8月号で、中岡京平「シナリオ創作研究-アイドル映画の場合-観客心理と描写技法」という記事を、『キネマ旬報』1983年8月下旬号では「アイドル」の特集が約40頁組まれ、寺脇研が「青春歌謡映画白書」という記事を書き、「アイドル映画」と混在しているが、「アイドル映画」というタイトルでは、竹入栄二郎が「アイドル映画の興収データ」、大林宣彦が「80年代アイドル映画考」、小藤田千栄子が「戦後アイドル映画の変遷」という記事を書き、「戦後アイドル映画の変遷」の内容は、「この夏の日本映画には、どういうのがあるの?―ゴールデン・ウイークが終わった頃だったか、あるいは、それ以前からだったか、よく聞かれたものである。"今年はね、もうアイドル映画ばっかり。アイドルちゃん以外は、そう『寅さん』くらいね"―くり返し答えたものである。ごく自然に"アイドル映画"という言葉が出て聞くほうもまた"あっそう"とそこに何の疑問も持たなかった。だが実はアイドル映画などというジャンルは、なかったはずなのである。


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