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ドワイト・D・アイゼンハワー
Dwight D. Eisenhower
アメリカ合衆国
第34代大統領
任期1953年1月20日 – 1961年1月20日
副大統領リチャード・ニクソン
出生1890年10月14日
アメリカ合衆国 テキサス州デニソン
死去 (1969-03-28) 1969年3月28日(78歳没)
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
政党共和党
出身校陸軍士官学校
配偶者マミー・アイゼンハワー
子女ダウド・アイゼンハワー
ドワイト・D・アイゼンハワー
Dwight D. Eisenhower
所属組織アメリカ陸軍
軍歴1915年 - 1953年
1961年 - 1969年[1]
最終階級 元帥
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世界ゴルフ殿堂殿堂表彰者
選出年2009年
選出部門特別功労
ドワイト・デビッド・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower、1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカの軍人、政治家。連合国遠征軍最高司令官(英語:Supreme Commander, Allied Expeditionary Force、略称:SCAEF)、陸軍参謀総長、NATO軍最高司令官、第34代大統領を歴任した。アメリカ国民からはアイク(Ike)の愛称で親しまれていた。モットーは「物腰は優雅に、行動は力強く」。身長5フィート10.5インチ(約179cm)[2]。 アイゼンハワーは、デイヴィッド・ジェイコブ(David Jacob Eisenhower)とイーダ・エリザベス・ストーバー・アイゼンハワー(Ida Elizabeth Stover)の7人の息子の3番目として、テキサス州デニソンで生まれた。 ドイツ西南部、フランスとの国境に近いザールブリュッケン郡カールスブルン
目次
1 生い立ちと家族
2 バター工場からウエストポイントへ
3 結婚
4 軍歴
5 ヨーロッパにおける連合国軍指揮官
6 連合国遠征軍最高司令官
7 大統領選でのアイゼンハワー
8 大統領としてのアイゼンハワー
8.1 外交問題
8.1.1 アジア
8.1.2 インドシナ
8.1.3 日本
8.1.4 中東
8.1.5 ソ連
8.1.6 キューバ
8.2 国内問題
8.2.1 経済政策
8.2.2 対人種差別
8.2.3 対赤狩り
8.3 ニクソンとの関係
8.4 内閣
9 大統領退任後
10 死後
10.1 アイゼンハワー公園
11 評価
12 その他
13 著作
14 関連書籍
15 脚注
16 参考文献
17 アイゼンハワーを描いた作品
18 関連項目
19 外部リンク
生い立ちと家族
スウェーデン系説、ユダヤ系説も存在し、父はウェストポイントの1915年に発刊された卒業年次別名簿に、スウェーデン系ユダヤ人と書かれている。
また、母イーダはメノー派スイス系ドイツ人のリヴァー兄弟団(River Brethren)、のちにエホバの証人ものみの塔協会のメンバーで1898年に洗礼を受ける[3]。
アイゼンハワー家は、ドイツ系であったが、18世紀以来ずっとアメリカで暮らしていた。その後一家は1892年にカンザス州アビリーンへ転居した。 アイゼンハワーはアビリーン高校に入学、1909年に卒業した。在学中膝の怪我による感染症が脚の付け根まで拡がり、命の危険があると診断された。医師は足の切断を勧めたが、彼は拒否し、後に奇跡的に回復している。しかし1年留年するはめとなった。 高校卒業後、ドワイトと兄エドガーは大学進学を希望していたが、経済的に困難な状況であった。そこで彼らは、一方が大学に通い、もう一方がその年の授業料を稼ぐという取り決めをした。始めの年はエドガーが大学に通い、ドワイトはベルスプリングのバター工場で夜勤シフトの従業員として働き始めた。1年後、エドガーは連続で通学したいと申し出た。ドワイトは承諾して、引き続きバター工場で働くこととなった。
バター工場からウエストポイントへ