アイゼナハ派
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ドイツ社会民主主義労働者党
Sozialdemokratische Arbeiterpartei Deutschlands
党首
アウグスト・ベーベル
ヴィルヘルム・リープクネヒト
創立1869年8月8日 (154年前) (1869-08-08)
解散1875年5月 149年前 (1875-05)
分離元ザクセン人民党[1]
合併先ドイツ社会主義労働者党
機関誌Demokratisches Wochenblatt(民主主義週報[2]
Der Volksstaat(フォルクスシュタート〔人民国家〕)[3][1]
政治的思想マルクス主義
科学的社会主義
民主的社会主義
政治的立場左翼
国際連携国際労働者協会
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通常アイゼナハ派(アイゼナハは)と称されるドイツ社会民主主義労働者党[1] (ドイツしゃかいみんしゅろうどうしゃとう、ドイツ語: Sozialdemokratische Arbeiterpartei Deutschlands, SDAP) は、ドイツ統一時代の北ドイツ連邦におけるマルクス主義社会主義政党

1869年にアイゼナハで創立されたアイゼナハ派は、ドイツ帝国時代を通じて存在した。その創設地と綱領からアイゼナハ派と呼ばれる。19世紀のドイツ労働運動草創期における最初の政治的組織であった。公式にドイツ社会民主労働者党という名前であったのは1869年から1875年にかけての6年間だけであった。しかしながら、名前と政治的パートナーシップに変遷がありつつも、その系譜は今日のドイツ社会民主党までたどることができる。
起源
ドイツ労働者協会連盟とドイツ社会民主労働者党

アイゼナハ派はドイツ労働運動の統一運動のうちに最初期に現れた組織の一つと認識されているが、最初ではない。 1869年の結成当時、産業革命で急成長した労働者階級は、労働者擁護のための注目すべき団体をすでにいくつか設立していた。その代表的なものが、レオポルド・ゾンネマン(ドイツ語版)のドイツ労働者協会連盟(ドイツ語版)(Verband Deutscher Arbeitervereine, VDAV)とフェルディナント・ラッサール全ドイツ労働者協会(Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein、ADAV)であった[4]

最も規模が大きかったのはVDAVであった。1860年代を通して、 1860年代までは、ほとんど非政治的で、経済闘争に特化し、経済的自由主義のパラダイムと完全に一体化していた。 VDAVは、ラサール率いるADAVの政治扇動を無視することに全力を尽くした。ラサール派は、基本的な経済問題への取り組みが不十分だと見られていた。 彼らの政治的アピールの多くは、ドイツのナショナリズムと大ドイツ主義を支持するにおける憂慮すべき過激さだ、と社会主義者が考えたことに基づいていた。 彼らは軍国主義的なプロイセン王国と親密だった[5]。結果として、ドイツ統一戦争が引き起こしたさまざまな混乱が、それまで動かなかったVDAVの大部分を政治化させた。 ゾンネマンに従って穏健な社会主義の新ドイツ人民党(1868年創立)に移った者もいれば、VDAVの体制を完全に捨てて、より急進的な政党を設立しようとした者もいた[4]
アイゼナハ派

ザクセン州アイゼナハで1869年8月7日から9日に開かれたドイツ労働者協会連盟の大会において、VDAVの活動家たちはドイツ社会民主労働者党を創立した[1]。このとき、反プロイセン的なザクセン人民党と、全ドイツ労働者協会の反シュヴァイツァー派も合流している[1]。のちにアイゼナハ派と呼ばれるこの面々は、ヴィルヘルム・リープクネヒトアウグスト・ベーベルの指導のもとにあった[3][6]

アイゼナハ大会には、多くの労働者協会、労働組合、全ドイツ労働者協会の元メンバー、国際労働者協会(第1インター)のドイツ支部メンバーなど264人が参加した[2]

結成大会で採択されたアイゼナハ綱領は、マルクスの影響とラサールの影響の両方が認められる[7][1]。綱領は3条からなり、第1条には党の目的として「自由な人民国家の樹立」をかかげ、第2条には6項目からなる党の基本原理、第3条には10項目からなる当面の要求がかかげられている[7]。半ラサール運動であった全ドイツ労働者協会連盟とラサール派内の反シュヴァイツァー派の合同という経緯から、基本原理にはニュルンベルク綱領からとられている部分が多く、当面の要求に関しては全ドイツ労働者協会の綱領の要素が取り込まれている[7]。この綱領はのちのゴータ綱領の基礎となった[7]

ベーベルとリープクネヒトの友人であり指導者であった政治理論家カール・マルクスは、新しく結成された党に個人的に大きな影響を与えた。そして、マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、国際労働者協会(第1インターナショナル)への加盟を認めた[8][9][1]
組織

マルクスの存命中に存在したアイゼナハ派は、その用語法がやや不明確であったにもかかわらず、ほとんどの観察者からはマルクス主義とみなされていた。国際労働者協会に加盟していたことと、リープクネヒトがマルクスと個人的に親密な関係にあったことから、この党はそのように呼ばれた[8]

アイゼナハ派のマルクス主義の性質は、後の数十年間にあらわれた共産党よりも民主社会主義に近かった。 党の綱領は、自由な人民国家(freier Volkstaat)を提唱し、民間協同組合を国家組織と連携させることを求めた。 同党は主に、資本主義の中で労働者が豊かになるための手段としての労働組合運動を支持した[8]

ドイツ統一問題においては、反プロイセン、連邦制的大ドイツ主義の立場をとった[1]普仏戦争では、はじめドイツの防衛を支持したが、エルザス・ロートリンゲンの併合には反対し、パリ・コミューンには国際主義の立場から連帯を表明した[1]
フォルクスシュタート

党の報道機関はアイゼナハ派の政治戦略にとって不可欠な要素だった。党の新聞は最初『民主週報』(Demokratisches Wochenblatt)、後に『人民国家(フォルクスシュタート(ドイツ語版))』(Der Volksstaat)と呼ばれ、リープクネヒトが編集していた。同紙は1869年10月2日から1876年9月23日までライプツィヒで発行された[10]。党はまだ独自の印刷所を持っていなかったが、リープクネヒトは労働者のための教育的手段として党の出版物を広く普及させようと意欲的に取り組んだ。『フォルクスシュタート』誌の大半の号は、ドイツの政治状況についての煽動的な文章が中心であったが、リープクネヒトは政治理論に関する論文や 学術講演の記録、さらには大衆小説も可能な限り掲載しようとした[11]。フォルクスシュタートの定期購読者は、1869年末に2000人、1875年3月には7500人に達していた[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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