アイオワ州の歴史
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アイオワ州の歴史(アイオワしゅうのれきし、: History of Iowa)では、主にヨーロッパ人がアメリカ合衆国アイオワ州に入って来てからの歴史を概説する。
有史以前の先住民族

アイオワ州となった地域に最初に入った人類はパレオ・インディアンの可能性が最も強い。これら古代の人々は氷期の終わり頃、紀元前9500年から同7500年頃に、アメリカバイソンマンモスおよびマストドンなどの動物を狩りしながらアイオワを通った。古期前期、すなわち紀元前7500年から同5500年頃に、季節によってアイオワに少数の人々が住んだ証拠がある。これらの人々はアイオワで持続的に住んだ最初の人々であり、その存在を示す人工物を残している。古期後期、紀元前2500年から同500年頃までに、アイオワに住んだ人々の人口が増加し、恒久的集落や埋葬地が現れてきた[1]
インディアン

1673年以前、アイオワの地域は長い間多くのアメリカ州の先住民族が住んでいた。様々な時代におよそ17の種族が住んでおり、アイオワ族、ソーク族メスクワキ族(多くの文献ではフォックス族と呼ばれた)、スー族ポタワトミ族、オト族およびミズーリ族などである。

1673年、フランス人ジャック・マルケットルイ・ジョリエがアイオワを訪れた。フランスはこの地域をフランス領ルイジアナあるいはヌーベルフランスの一部と考えた。1762年、フランスは密かにルイジアナをスペインに割譲した。1800年スペインはまた密かにルイジアナをフランスに戻した。1803年フランスはルイジアナをアメリカ合衆国に売却した。ポタワトミ族、オト族およびミズーリ族インディアンは自分たちの土地を1830年までに合衆国政府に売却し、ソーク族やメスクワキ族は1845年までこの地域に留まった。スー族のサンテー隊が1851年に合衆国政府と条約を交渉した最後の者となった。

ミシシッピ渓谷上流ではソーク族とメスクワキ族が最大で最も強力な種族だった。彼らは早くにミシガン地域からウィスコンシンに移動し、1730年代までにイリノイの西部に居所を変えた。そこではロック川ミシシッピ川に沿って集落を構えた。毎年その集落に住む期間は数ヶ月だけだった。他の期間はイリノイの西部やアイオワの東部で、狩猟、漁労や、食料や家庭用の道具を作るための物資を採集して歩いた。毎年春、この2種族は北のミネソタ地区に動き、の木を切ってシロップを作った。酋長ブラック・ホーク

1829年、合衆国政府はこれら2種族に、イリノイの西部にある集落を引き払い、ミシシッピ川を越えてアイオワ地域に移動するよう伝えた。合衆国政府は1804年の条約に基づいてイリノイの土地の領有権を主張した。移住は行われたが、暴力沙汰がなしにというわけには行かず、ソーク族の尊敬を集めていた酋長ブラック・ホークが移住に抗議して、1832年にイリノイのソークノーク集落に戻ってその所有権を主張した。それに続く3ヶ月間、イリノイの民兵隊がブラック・ホークとその1隊約400名をミシシッピ川の東岸に沿って北へ追いかけた。ブラック・ホークたちはウィスコンシンのバッドアクス川で降伏したが、その数は約200名に縮小していた。この事件はブラック・ホーク戦争と呼ばれている。この抵抗に対する懲罰として合衆国政府はソーク族とメスクワキ族にアイオワ東部の土地を手放すよう要求した。この土地はブラック・ホーク買収とも呼ばれ、ミシシッピ川に沿って50マイル (80 km)の幅で、ミズーリ州との境界から北アイオワのファイエット郡とクレイトン郡にまで伸びていた。

今日、アイオワでは唯一、メスクワキ族の集団がタマ郡メスクワキ居留地に住んでいる。ソーク族とメスクワキ族の大半がイリノイから出て行った後も、メスクワキ族の何人かはソーク族の少数の者と共に、アイオワ東部に狩りや釣りのために戻った。彼らはジェイムズ・グリムズ知事に接触して元の土地を買い戻したいと許可を求めた。彼らは初回の土地購入に735ドルを集め、最終的には約3,200エーカー (12.8 km2)の土地を買い戻した。
アイオワの最初のアメリカ人開拓者

アイオワでの最初の公式アメリカ人開拓は1833年6月のブラック・ホーク買収の時に始まった。アイオワの初期開拓者は大半がオハイオ州ペンシルベニア州ニューヨーク州インディアナ州ケンタッキー州およびバージニア州から移住してきた。新規入植者の大多数が家族で移動してきた。ほとんどの家族は生まれた州を離れてからアイオワに到着するまでに少なくとも一つの州に住んだことがあった。アイオワに到着するまでに3度4度と居所を変えた家族もいた。それと同時にあらゆる家族がここで定着したわけではなかった。多くの者は間もなくグレートプレーンズのダコタやその他の地域に移転していった。

開拓者たちは東部で良く知っていた環境とはアイオワの環境が異なることが分かった。アイオワの北東部と南東部は森林が茂っていた。そこの開拓者は住居、外構および柵のための資材があった。さらに木材は豊富な燃料としても使えた。アイオワ東部を過ぎれば、高い草の生える草原が拡がっていた。最東部や南東部および河川に沿った地域では樹木が豊富だったのに対し、他では限られていた。アイオワの南部では、河川に沿って石炭の露出層が見出された。

アイオワの東部や中央部の大半では、開拓者たちが丸太小屋を造るために豊富な材木を見付けられたが、燃料や柵にする代替材を見付ける必要があった。燃料には乾燥させた草原の干し草トウモロコシの穂軸および乾燥させた動物の糞が用いられた。樹木の少ないアイオワの北西部に入った人々は、芝土の家を建てた。初期柴土家屋の住人がその新しい住まいについて、「柴土」は安いだけでなく、冬暖かく夏は涼しいと賛辞の言葉で書き残している。虫、匂い、あるいは絶えることのない埃、湿気および暗さについては誉め言葉も無かった。

開拓者たちは飽きることなく柵の代替材も実験し続けた。


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