わし座
[Wikipedia|▼Menu]

わし座Aquila
わし座の恒星
属格形Aquilae
略符Aql
発音英語発音: [?akw?l?] Aquila, 口語的に英語発音: [??kw?l?]; 属格:/?akw?li?/
象徴ワシ[1][2]
概略位置:赤経 18h 41m 35.5650s- 20h 38m 44.3155s[3]
概略位置:赤緯+18.6647091° - −11.8664360°[3]
20時正中9月上旬[4]
広さ652.473平方度[5]22位
バイエル符号/
フラムスティード番号
を持つ恒星数65
3.0等より明るい恒星数3
最輝星アルタイル(α Aql)(0.76
メシエ天体数0[6]
確定流星群3[7]
隣接する星座や座
ヘルクレス座
へびつかい座
へび座(尾部)
たて座
いて座
やぎ座
みずがめ座
いるか座
テンプレートを表示

わし座(わしざ、ラテン語: Aquila)は、現代の88星座の1つで、プトレマイオスの48星座の1つ[2]ワシをモチーフとしている[1][2]。このワシについて現代の解説ではゼウスの下にガニュメーデースを連れ去ったワシであるとされることが多いが、異説もある。

α星アルタイルは、全天21の1等星の1つ[注 1]。東アジアの七夕の伝承では、アルタイルは彦星(牽牛)とされ、織姫(織女)とされること座α星ベガと対になる星と見なされている。また、アルタイルとベガ、はくちょう座α星デネブの3つの1等星が形作る大きな三角形は夏の大三角と呼ばれる。アルタイルとその両脇に見えるβ星・γ星の3つの星の並びには、日本各地に様々な呼び名が伝えられている。

東アジアの七夕伝説では、アルタイルが牛飼いの男牽牛(彦星)、ベガが機を織る娘織女とされる[8]
特徴2004年12月12日に撮影されたわし座の星景写真。このように初冬でも日没後の西の空に見ることができる。

この星座で最も明るく見える1等星のα星アルタイルは、全天で13番目、北天で5番目に明るく見える星[9]で、こと座のベガ、はくちょう座のデネブと形作る大きな三角形は夏の大三角として親しまれている[10]。わし座の西半分には天の川が通っており、特に南で接するたて座に掛けては星が豊かに広がる領域である[11]

夏の大三角の印象が強いため北半球では夏の星座とされることが多い[12]が、20時正中は9月上旬頃[4]で初冬の12月でも日没後の西の空に観ることができる[13]。北端は+18.66°、南端は-11.87°と、天の赤道を跨ぐように位置している[3]ため、人類が居住しているほぼ全ての地域から星座の全域を観望することができる。
由来と歴史

紀元前4世紀の古代ギリシアの天文学者クニドスのエウドクソスの著書『パイノメナ (古希: Φαιν?μενα)』に記された星座のリストに既にわし座の名前が上がっていたとされ、エウドクソスの著述を元に詩作されたとされる紀元前3世紀前半のマケドニアの詩人アラートスの詩篇『パイノメナ (古希: Φαιν?μενα)』では「ワシ」を意味する ?ετ?? (Aetos) という名称で登場する[14]。アラートスは矢の傍らで鳥[注 2]が存分に翼を拡げているが、これはずっと北の方になる。矢の近くにもう一羽の鳥が風を切っている。大きさでは見劣りするけれども、夜が去り行くときに昇れば、嵐を呼ぶもの。これを人は鷲と呼ぶ。[15]と、はくちょう座より小さな鳥の星座として ?ετ?? を描写している。このように、古代ギリシャローマ期の ?ετ?? は現在のわし座よりはるかに小さな星座とされており、紀元前3世紀後半の天文学者エラトステネースの天文書『カタステリスモイ (古希: Καταστερισμο?)』や1世紀初頭の古代ローマの著作家ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌスの『天文詩 (: De Astronomica)』では、わし座に属する星はわずか4個で、現在の τ星が頭、α・β が両翼、ζ星が尾を表すものとされた[16]

少し時代を下った帝政ローマ2世紀頃のクラウディオス・プトレマイオスの天文書『ヘー・メガレー・スュンタクスィス・テース・アストロノミアース (古希: ? Μεγ?λη Σ?νταξι? τ?? ?στρονομ?α?)』、いわゆる『アルマゲスト』では、?ετ?? には15個の星があるとされた[17]。プトレマイオスはこの15個の星のうち α・β・γ・ζ・μ・ο・σ・τ・φ の9個の星をワシを形作る星とし、アルタイルの南東にある6個の星、すなわち現在の δ・η・θ・ι・κ・λ を「Antinous」とした[16][18]。これは、ローマ皇帝ハドリアヌスの愛人として寵愛を受けた男性で、18歳の若さでナイル川で溺死した実在の人物であるアンティノウスをモチーフとしたものであった[18][19]17世紀ドイツの天文学者ヤコブス・バルチウス1624年に刊行した天文書『Usus astronomicus planisphaerii stellati』の中で「アンティノウスは、皇帝ハドリアヌスの命を受けたプトレマイオスがわし座の中の星座を形作らない星を使って、ワシの下に置かれた。」と、プトレマイオス自身によって設けられたものとしている[19][20]。ただしプトレマイオスは Antinous をあくまで ?ετ?? の中にあるアステリズムと位置付けており、『アルマゲスト』の中で正式な星座とした48星座の中に Antinous を含めていない[19]

アルタイルの南側の星群をアンティノウスと見なす風潮は中世でも続いていたが、星図天球儀に描かれるようになったのは16世紀半ば以降のことである[19]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:160 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef