ら抜き言葉
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独自研究が含まれているおそれがあります。(2009年3月)


正確性に疑問が呈されています。(2010年7月)


ら抜き言葉の例(規範的な形は「食べられる」)このような「させていただく」を問題視する意見もある(規範的な形は「休業いたします」)敬語の乱れとされる表現の例(規範的な形は「お済みになったら」)

日本語の乱れ(にほんごのみだれ)とは、言語の変化などによって、規範的とされる日本語標準語雅語など)との間に齟齬が生じることを否定的に捉えた言葉である。「ゆらぎ」や「ゆれ」、「縺(もつ)れ」などとも言う。言語作法に関する問題については日本語の誤用も参照。
「言葉の乱れ」という概念

「言葉の乱れ」という価値判断を伴った概念は、言語学には存在しないが[1]言語政策などでは取り上げられることがある。この違いは「記述文法」と「規範文法」という考え方の違いを反映している。記述文法とは、言語学において実際の言語の使用に基づいて記述された言語の法則性・規則性のことであり、記述文法における「文法的におかしい」「非文法的」とは、当該言語にそのような表現・用法は存在しないという意味である。一方、規範文法とは、当該言語の話者が倣うべき言語の規則のことであり、規範文法における「文法的におかしい」とは、当該言語で実際に使用が見られるが、倣うべき規則から逸脱しているという意味である。規範文法から逸脱するものが「言葉の乱れ」に相当する。

言語の変化を良くないものと捉える考え方は古今東西で見られる一方、言語は本来的に変転・流転するものであり、ある時代で「乱れ」と見做されたものが一過性に終わらず、後世には定着することも多い。例えば清少納言が作者とされる『枕草子』にも若者の言葉の乱れを嘆く一節があり、「むとす・んとす」を「むず(る)・んず(る)」と言うことを「いとわろし(非常に悪い)」と述べているが、「むず(る)」は中世日本語ではひとつの助動詞として定着する。なに事を言ひても、「そのことさせんとす」「いはんとす」「なにせんとす」といふ「と」文字を失ひて、ただ「いはむずる」「里へいでんずる」など言へば、やがていとわろし。 ? 枕草子

言語の変化は私的な口語で多く見られ、容認もされやすい。また、芸術や文芸など創作活動における日本語の使い方は自由であり、言語政策による制約の対象外である。その一方で、書き言葉や公的な口語は保守的であり、慎重な運用が求められる。もっとも、公的な口語も時代による変化は免れえず、例えば1945年から2006年の総理大臣の演説を見ても、助詞や助動詞の使い方が変化している[2]
批判

金田一春彦は、日本語の乱れ(言葉の乱れ)という考え方に異を唱え、次のような理由から日本語は乱れていないとした[3]

音韻の面では、訛った発音をする人は格段に減りつつある。

文法の面では、昨今日本語の乱れとされる言い方の多くは実は戦前からあるものである。また、その多くは表現の明快さや論理性を高める方向の変化であるから、むしろ歓迎すべき変化である。

全体として見ると、かつて日本語に地域ごとの方言しかなく異なる地域間では意思疎通が困難だったのが、共通語に統一されつつある現代は、「日本語の乱れ」どころか乱れが収まりつつある状況である。

そのほかの指摘には以下のものがある。

言葉は変化するものである[4]

日本語の音韻、形態、統語の制約に沿っていたり、了解可能な規則のもとに省略され、言いやすさ・配慮などが反映されている場合がある[4]

正しい日本語の想定を批判する立場としては、本来は市民権を得ている生きた日本語を想定する必要がある[5]

明治維新後、標準語を話すことが強制され、従わない者には罰が与えられたという歴史がある(方言札も参照)。このようなイデオロギーの影響を受けてきた規範を求めることは問題がある[5]

正しくないとされるものが抑圧される構造を生み出す[5]。現代日本では思想や表現の自由は憲法によって保証されている。現代社会では、基本的人権の下に平等である。

コミュニケーション疎外の問題[5]

容認

言語の規範を示すあるいは仰がれる機関(近代以降の日本では文部省文部科学省日本放送協会など)が必要に応じて変化を容認し、場合によっては積極的に規範を変えることさえある。

1905年(明治38年)に定められた『文法上許容スベキ事項』では、当時の書き言葉に現れていた「従来破格又は誤謬と称せられたるもの」の一部を追認した。この時に追認されたものには「?なるもの」「挑戦するも果たせず」といった表現があり、それぞれ従来は「?というもの」「挑戦すれども果たせず」としなければ文法的に誤りだとされていたが、これらを誤用と認識する人は現在では少なくなっている。

第二次世界大戦後には、当用漢字(のち常用漢字)によって漢字数の削減と字体の簡略化が打ち出され、現代仮名遣いによって文法や語源に関係なく現代標準語の発音通りに表記する仮名遣いに改められた(国語国字問題を参照)。1952年、国語審議会の『これからの敬語』では敬語の簡略化を図った[6]

2018年には、文化庁の文化審議会国語分科会が「コミュニケーションの在り方」と「言葉遣い」について検討し、『分かり合うための言語コミュニケーション』を発表している。そもそも言語は変化するものであるとし、地域差もあれば、同じことを表現するのに複数の方法も考えられ、通用しやすい言葉遣いをする必要はあるが、伝統・標準だけが正しいとか、あるいは自分の基準以外を誤りと見なさず、他者の言葉遣いには寛容さを求めた[7]。コミュニケーションでは、時には異なりを認め、伸び伸びとした伝え合いが求められる[7]
具体例

以下で例示するものは現代の標準語(全国共通語)において規範的でないと指摘されるものであり、地域や階層によっては古くから用いられていて「乱れ」とされない場合がある。
文法の揺れに関するもの
ら抜き言葉.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキバーシティにら抜き言葉に関する学習教材があります。

上一段活用下一段活用カ行変格活用動詞の未然形に付く受身・尊敬・自発・可能表現の助動詞「られる」のうち、可能表現の「られる」が五段活用可能動詞と同様に「れる (-eru)」に変化する現象。「見る」のような上一段活用動詞、「食べる」のような下一段活用動詞のほか、「来る」の活用の種類であるカ変動詞の可能表現としてそれぞれ「見れる」「食べれる」「来れる」とするものは、「ら」を含んでいないということから「ら抜き言葉」と呼ばれ、規範的な立場からは誤用とされる。ただし、中国・四国地方や近畿地方、東海地方では古い時期から常用されていた。また、五段動詞の可能表現では、江戸時代初期にはすでに「読まれる」→「読める」のような変化が起こっている。「見られる」が「見れる」に変化することで尊敬や受身の形との曖昧性がなくなることから、この形を合理的なものと見る見解もある[8][9]


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