ゆーとぴあ
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この項目では、お笑いコンビについて説明しています。その他の用法については「ユートピア (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ゆーとぴあ
メンバーホープ(城後光義)
ピース(帆足新一)
結成年1978年
1996年(再結成)
2017年(再々結成)
解散年1989年
2008年
事務所ライムライト
ニュースタッフエージェンシー
サワズカムパニー
三木プロダクション
→ホープ:ビッグ・ブッキング・エンターテインメント
ピース:エイムプロモーション→オフィスコットン
活動時期1978年 - 1989年
1998年 - 2008年
2017年 -
師匠熊田にげろう(ホープ)
出会い浅草松竹演芸場
旧コンビ名富士ホープ・ピース、大空ホープ・ピース(ホープ)
コント笑バンク(ピース)
旧トリオ名コント・スリーピース、コントSOS(ホープ)
現在の活動状況活動中
芸種コント
過去の代表番組お笑いスター誕生!!
同期ツービート
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ゆーとぴあは、日本のコントコンビである。ゴムパッチン芸で一世を風靡した。

活動時期は1978年 - 1989年1996年 - 2008年2017年 - 。

ライムライトニュースタッフエージェンシーサワズカムパニー三木プロダクションに所属していた。2015年より芸能プロダクションビッグ・ブッキング・エンターテインメント (株式会社BBE)」に所属。共に大病を患ったことで、後から病気になったピースがホープに相談したことがきっかけとなり、2017年に再々結成[1]
メンバー

ホープ

本名及びピン活動時の芸名:城後 光義(じょうご みつよし)

1949年10月24日生まれ、福岡県出身、柳川商業高校卒。ビッグ・ブッキング・エンターテインメント所属。

ギター流しの息子で、短期間の銀行員生活の後、吉本新喜劇白木みのるの付き人)を経て上京。

ストリップ劇場の新宿モダンアートにて丸久須男との漫才コンビ『富士ホープ・ピース』で初舞台。モダンアートに役者として出演していた大空ヒットの息子の紹介で大空一門入りし改メ『大空ホープ・ピース』、大阪に渡り松竹芸能所属で新世界新花月等に出演。

解散後東京に戻って酒井くにおらと女装コントをしていた時、西賀八の紹介で熊田にげろう(後のレオナルド熊)の弟子になり、福岡ケンジの名で師匠と『コント三冠王』を組み3年間活動。

東京・田端を根城にする熊や、ポール牧の下に自然発生的に集まった『田端グループ』[2]に集まった兄貴格に、ジミー司(後のマギー司郎)と共に祭り上げられる。

自身が所有するお金を徴収される上に彼女まで寝取られてしまう等、熊の常軌を逸した苛めと搾取に耐え切れなくなり、1974年弟弟子の水島びん(現:水島敏)、市井信彦(鳳らん太の実弟)と『コント・スリーピース』を結成して独立し、三光芸能に所属。『大正テレビ寄席』での高座が井原高忠日本テレビプロデューサー)の目に留まり、月見おぼん・こぼんらと共に日劇ミュージックホール赤坂コルドンブルーに招聘される。

エクソシスト』のパロディを演じていた時、舞台装飾に用いられていたゴム紐アドリブで引っ張って遊んでみたところ、外国人客に大受けを取る。これを発展させゴムパッチン芸を創案して人気者になったが、「芸風がヨゴレで泥臭く、テレビ向きではない」との理由でクーデターを起こされ、グループのみならず事務所からも追放されてしまった[3]

水島・市井は『コント・ニューヨーカー』で活動継続。ホープは弟弟子のはらみつお(当時ロッキー牧)と『ホープ&ロッキー』を組み、一時マギー司郎の手品の助手も務めていた。

中村ゆうじと「ホープ&ゆうじ」を結成[4]


ピース

本名:帆足 新一(ほあし しんいち)、別芸名:立花 伸(たちばな しん)

1952年3月9日生まれ、大分県出身。2022年以降オフィスコットン所属。

1973年、コントコンビ『コント笑バンク』を結成、浅草松竹演芸場などの舞台を踏む[5]

内山田洋とクール・ファイブの元ボーヤフォーリーブスの元ボーヤとのコンビ『アタックコンビ』[6]としても活動。

ゆーとぴあ結成当時、既に結婚して子供も居り、見るからに生活苦で切羽詰まって後がない印象が、ホープの目に留まったという。

猪木芸人の元祖で、森進一顔真似も手掛ける。


概説
第1期(昭和期)

1978年浅草松竹演芸場で結成。ピースが口に咥えた極太ゴム紐をホープが引っ張り、顔面に直撃させるゴムパッチン芸で、一躍脚光を浴びた。

花王名人劇場』への初出演を前に、澤田隆治プロデューサーと「よろしくネ」のポーズやゴムパッチン芸を改良し、学園ドラマ風の掛け合いから、生徒(ピース)に咥えさせたゴム紐を教師(ホープ)が引っ張りつつ、「人生は長いようで短い。短いようで長い。そう、この1本のゴムのように…」「さあ、人生を噛み締めろ」「人生は、長い、長い、道のりを歩かなければならない」「人生とは、痛みに耐えるものなんだ」「人生は厳しい。そして、人生は2度ある」

…等と説教するツカミを加えて、人気を不動のものにする。

ゴム紐が伸び切ったところで生徒がすかさず口を開き、教師に逆襲するというバリエーションもある。ゲストやを相手に敢行する場合もあり、誰もが痛がることから察するに、実際に相当痛い模様。

コマーシャルにも多数出演するなど幅広く活躍したが、その後ゴムパッチンがマンネリ化して受けなくなったため、『ゴム地獄からの脱出』と銘打ってゴムパッチン無しのパターンにも挑むが、ジリ貧に喘ぐ。

『田端グループ』の長としてホープの若手育成能力を高く評価する澤田が、東阪企画のスカウト兼教育係にと誘ったがこれを断わり、自前の芸能事務所『チャンプ企画』を設立。しかしこれが元で借金が嵩み、ホープは躁鬱病から睡眠薬ギャンブル依存症に陥って、家庭も崩壊した。

ご容態に伴う自粛」で営業が激減した事でも打撃を受け、1989年に所属事務所に無断で解散を強行。この時ホープの盟友ビートたけしの計らいで、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の番組内で『最後のゴム』と題した解散式を行ったが、ホープはニュースタッフエージェンシーから破門を申し渡されて仕事を干され、借金苦から芸も荒れて、表舞台からフェードアウトする。

ピースは歌舞伎町のスナックの雇われ店長で糊口を凌いだ。
第2期(平成期)

ホープは『たけし軍団』に対抗し、ぼんちゃん(西田和晃)らチャンプ企画で面倒を見ていた若手を率いて『ホープ軍団』の活動を本格化したが浮上せず。写真週刊誌フライデー』の企画で、自分に多額の保険金を掛けて内戦下のアフガニスタンに渡り、ムジャーヒディーン民兵の前で慰問と称してゴムパッチン芸を披露するなど、捨て身の営業も行ったが挽回できずにいたところ、旧知のサワズカムパニーの社長と偶然再会。ちょい役を紹介される内に、グルメや温泉番組のレポーターとして定着した。

しかし舞台に未練のあるホープは、『コント百連発』(相方は轟二郎)『アッパー8』(相方は武者)を解散した弟弟子の水島びん・青木イサムと『コントSOS』を組むなどしたがパッとせず、ピースの副業もバブル崩壊で行き詰まったため、ホープと義兄弟の契りを結ぶ石倉三郎の取り成しで、古巣のニュースタッフエージェンシー(渋谷道頓堀劇場)に詫びを入れ、1996年にコンビ再結成した。

ピースに学生服が似合わなくなったため、「先生、人生とは何でしょうか」「先生が教えられる事は、何もない。お前は人生の何たるかを知っている。先生が教えて貰いたい位だ」

……とのボケを加えるなど、ゴムパッチン芸もバージョンアップした。

『東京新喜劇21』を共同座長として率いた他、従前のピン活動も継続した。2006年公開の『トリック劇場版2』は、監督の堤幸彦が大ファンだった事から、ゆーとぴあのギャグを前提に脚本構成されており、重要な役回りを与えられて出ずっぱりで出演。これを機に人気復活するものと当て込んで、自費でグッズやCDなどを用意したが、大量に売れ残ったため、また借金を背負った。

2007年には結成30周年記念公演を行ったが、これも失敗して借金を増やし、2008年9月23日にピースが座長の劇団を旗揚げした後、10月20日にホープが一方的にコンビ再解散と、ゴム封印を発表した。

解散を知らされていなかったピースは、フジテレビのインタビューにおいてショックを受けた様子で「凍結と思っていた」「電話一本欲しかった」と述べた[7][8]

ホープは2009年4月にブッチー武者・酒井晴人(激弾BKYU座長)と『ホープ軍団』を再旗揚げし、同年11月26日、下積み時代から親交の深いビートたけしの命名により『ホープ軍団』から『コント八ッ場ダム』へと改名した。

またホープは、仕事が減ったベテラン芸人や、売れない若手に活動の場を提供する『お笑い職業安定所』を主宰している。
主なギャグ

「よろしく?ねっ!」
左足を右の方に蹴り上げて両腕を左横に振る、人が走るようなポーズ初期には
レギュラーの『あるある探検隊』の決めポーズ(二人が肩を組み、手を広げて一歩前に飛び出すポーズ)に似た格好もしていた。

「も?嫌っ!」
「よろしく?ねっ!」の締め挨拶版、ポーズは一緒。

「先生!」「何だ生徒」「名前くらい覚えて下さいよ」「そうだったな、バカ」「バカバカ言わないで下さいよ。僕にだって名前があるんです」「じゃ佐藤」「僕は山本です」「いや、お前は佐藤だ」

「血だ!」
北の湖魁皇が土俵上で同じポーズを良く見せている

「おでーかんさまぁ、おねげぇしますだ」「こうなったら、一揆を起こすしかないべ」

「何だ、この(陰険な)静けさは…」
滑った時に用いる自虐ギャグ。レオナルド熊の持ちネタを承継
出演
テレビ

お笑いスター誕生!!日本テレビ
『田端グループ』以外の芸人も数多く発掘・推薦してスターダムに伸し上げたが、師匠が組んだコンビ『ラッキーパンチ』を紹介した際「ヨゴレは駄目」と見下したプロデューサーと衝突し、人気絶頂だったにもかかわらず、7週勝ち抜きの時点で途中降番させられた[要出典]。

笑点(日本テレビ)

笑っていいとも(フジテレビ)

ズバリ本命!大爆笑 (フジテレビ) 1981年

花王名人劇場(関西テレビ)

芸能ひろば(NHK総合)

笑いがいちばん(NHK総合)

初詣!爆笑ヒットパレード (フジテレビ)

元祖どっきりカメラ(日本テレビ)

ドッキリ宅急便(テレビ東京)

金曜バラエティー スタジオパークからこんにちは(2006年、NHK総合)

午後は○○おもいッきりテレビ(日本テレビ)

ザ・ノンフィクション(2016年2月7日、フジテレビ)(関東ローカル))

オレたちひょうきん族(1987年「ひょうきんベストテン」でとんねるずとして出演)

お笑い演芸館(2017年12月9日、BS朝日)

テレビドラマ

意地悪ばあさん 第32話(1982年、フジテレビ)

おとぼけ駅員 キップくん(1985年、フジテレビ)

キャッツ・アイ ミッドナイトは恋のアバンチュール(1988年、日本テレビ)

仮面ライダーBLACK - 武者

大河ドラマ武蔵 MUSASHI」(2003年、NHK)

猪熊夫婦の駐在日誌4(2007年11月28日、テレビ東京) - 防犯協会・野口会長(城後)、半田議員(立花)


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