ものわりのはしご
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ものわりのはしご 『ものわりのはしご』第1冊書影
著者トマス・テート(英語版)
翻訳者清水卯三郎
出版日明治7年(1874年)1月-3月
出版社瑞穂屋

『ものわり の はしご また の な せいみ の てびき』(以下、『ものわりのはしご』)は、清水卯三郎により、明治7年(1874年)に刊行された化学の入門書である。「ものわり」は清水による造語で「化学」、「はしご」は階梯、つまり「手引き」の意味である[1]
概要

日本語による言文一致体を試みた最初期の文献資料のひとつであり、漢字漢語を用いない、わかち書き・ひらがな表記の和文脈を貫いていることを特徴とする。直訳語に由来する「である」体をはじめて一般の文体に取り入れたことでも知られている。

イギリスの科学教育者であるトマス・テート(英語版)が1850年に上梓した実験化学の入門書『Outlines of Experimental Chemistry; Being a Familiar Introduction to the Science of Agriculture』の訳書であり、付録として、本文に登場する化学用語など157項目を収録した「ことばのさだめ」が付け加えられている。
背景
幕末・明治期の漢字廃止論と国語国字問題「国語国字問題」も参照

江戸期の日本において、公的な文書の多くには漢文が用いられていた。しかし、幕末以降、欧米の思想が浸透するようになると、これら漢字・漢文の必要性を疑問視する声が大きくなった[2]。『ものわりのはしご』が刊行された明治7年(1874年)当時の日本においては、漢字を廃止し、西洋のような言文一致体を用いることこそが、国民に教育を普及させ、日本の近代化と富国強兵を実現させる手段であるとする考えが存在し、具体的な表記法をどのように改良するかという議論が盛んに行われていた[3]

日本語の表記に関する議論を先導したのは前島密であるといわれている。前島は慶應2年(1866年)、時の将軍である徳川慶喜に「漢字御廃止之議」を建白し、国民教育の普及のためには漢字・漢文の廃止と言文一致が必要であることを論じた。さらに、新政府発足後の明治2年(1869年)には「国文教育之儀ニ付建議」、明治5年(1872年)には「学制御施行に先ず国字改良相成度卑見内申書」を上申し、学校教育における国字の改良を訴えた[2]。また、加藤弘之は明治2年(1869年)の『交易問答』と明治3年(1870年)の『真政大意』において、当時著者が有していた自由民権思想を民衆に広く伝えるため、口語体である「でござる」体を用いた。西周も明治7年(1874年)の『百一新論』において同様に、「でござる」体を用いた[4]

前島が日本語の表記法として仮名文字がふさわしいと考えたのに対し、南部義籌は、明治5年(1872年)の「文字ヲ改換スル議」で[2]、西周は明治7年(1874年)の「洋字ヲ以テ國語ヲ書スルノ論」で、ローマ字こそが日本語の表記法としてふさわしいと論じた[3]。また、福澤諭吉は明治6年(1873年)の『文字之教』において、将来的な漢字廃止に向けて、使用する漢字数を制限する漢字節減を説いた[5]
清水卯三郎とひらがな専用論「清水卯三郎」も参照清水卯三郎

『ものわりのはしご』の翻訳者である清水卯三郎は商人で、自ら翻訳した書籍の出版業も営んでいた[6]文政12年(1829年)3月4日、清水は武蔵国埼玉郡酒造業者の家に生まれ[7]、母方の伯父である根岸友山のもとで漢学数学薬学を修めた[8]嘉永2年(1849年)、21歳で江戸にわたり、おそらくは寺門静軒のもとで漢学を、『蘭学階梯』を教科書に独学で、のち箕作秋坪に師事して、蘭学を学んだ[9]。さらに、安政5年(1858年)、開港直後の横浜で商売をはじめた清水は、通詞・立石得十郎や、アメリカ大使・ハリスの書記官であるアントン・ポートマンなどから英語を学んだ[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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