もしもの日
[Wikipedia|▼Menu]
「もしもの日」の最中、新聞配達員を襲撃する仮想ドイツ兵

もしもの日(英語: If Day, フランス語: Si un jour)[1] とは、第二次世界大戦中にカナダで実施された、ナチス・ドイツを敵国と想定した軍事演習である。1942年2月19日、マニトバ州ウィニペグ周辺がナチス・ドイツによる占領下に置かれたという想定で、大ウィニペグ戦時国債委員会(The Greater Winnipeg Victory Loan committee)が主催した。これは当時のウィニペグにおいて史上最大級の演習であった。

「もしもの日」の内容には、カナダ軍と仮想ドイツ兵の銃撃戦、著名な政治家の拘留、ナチスの法の発布、そして大規模なパレードが含まれる。この演習は主に戦争遂行の為の資金調達を目的としており、実際に300万カナダドル以上もの寄付が集まったという。
背景A・J・キャッソン(英語版)が作成した戦時国債のポスター(1941年)

「もしもの日」の目的は、カナダ政府当局が戦費調達を目的に個人および企業に対して発行していた戦時国債(Victory Bonds)の購入促進であり、第二次世界大戦における2度目の大掛かりな戦時国債キャンペーンであった。このキャンペーンは1942年2月16日から3月9日にかけて行われた。マニトバ州における寄付目標額は4500万ドル(2011年の価値でおよそ6億2000万ドル相当[2])で、このうちウィニペグの寄付目標額は2450万ドルであった。大ウィニペグ戦時国債委員会は全国戦争経済委員会(英語版)(National War Finance Committee)の地域支部として、議長ジョン・ドレイパー・ペラン(英語版)の元に設置された。主催するにあたり、戦時国際委員会では国民らがカナダ本土侵攻を仮想的に体験する事により、誰しもが戦争と無関係ではない事を自覚する事を意図していた[3]

委員会はマニトバ州を45つに区分した地図を作成し、各区ごとに100万ドルの寄付目標額を設定した。やがて戦時国債の発行額はこの目標額を達成したが、この地図は「ドイツの侵略」の為に再利用された[4]。地図は街の中央交差点に掲示されていた[5]。「もしもの日」の実施については各地方紙により数日前から周知が図られていたものの、それでも相当数の市民が「ドイツ軍」による侵略に驚いていたという[4][6]。また「もしもの日」演出用のラジオ放送が受信される可能性があった為、隣接するミネソタ州の北部でも住民に対する周知が行われた[4][note 1]。1942年2月18日、ドイツ軍風の塗装を施されたカナダ空軍機が市街地上空を飛行した[7]。これはウィニペグ北東部の小さな町セルカーク(英語版)にて「もしもの日」のメインイベントに先立って行われたもので、「ドイツ機」の飛行に合わせた模擬爆撃と1時間の停電が実施されている[8]
実施

「もしもの日」には、ウィニペグ周辺に駐屯していたカナダ陸軍将兵およそ3,500名全員が投入され、この時点でウィニペグ史上最大の演習となった[1][9]。E・A・プリダム(E. A. Pridham)、D・S・マッケイ(D. S. McKay)の両大佐が守備隊側指揮官を務めた[3][10]

第18(マニトバ)装甲車連隊(英語版)、第10軍管区工兵隊、同管区通信隊隊、王立ウィニペグライフル連隊(英語版)、ウィニペグ擲弾兵連隊(英語版)、ウィニペグ軽歩兵連隊(Winnipeg Light Infantry)、クイーンズ・オウン・キャメロン・ハイランダーズ・オブ・カナダ連隊(英語版)などの軍部隊のほか、カナダ復員兵防衛隊(Veteran's Guard of Canada)や予備役将兵、市民団体なども協力した[11]。「ドイツ兵」は地元団体の志願者から選ばれ、彼らはハリウッドからレンタルした制服や装備を身に付け、顔にサーベルの傷跡を描いたりしていた[7][12][13]。エーリッヒ・フォン・ノイレンベルク(Erich von Neurenberg)なる人物[7][14][note 2]が指揮官役を務めた。およそ3,000ドルが準備に費やされた[6]

2月19日5時30分頃、市街地における「ドイツ軍」のパトロールが始まった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef